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艶筆  作者: 佐々山
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吉原、再び

 翌日、直行が向かった先は――

「ついに来てしまった……」

 目の前に広がるのは、別世界のような華やかさを備えた遊郭。昼間だというのに、煌びやかな衣装をまとった遊女たちが軒先に立ち、馴染み客や新参者を手招きしている。

 だが、直行の胸にあるのは浮ついた期待ではなく、ひやりと冷たい緊張だった。

(まさか、またこんなところに足を踏み入れることになるとはな……)

 過去の苦い記憶がよみがえる。かつて遊女に心まで吸い尽くされたあの夜。あれ以来、二度と吉原には近づかないと誓ったはずだった。だが、今、彼は幽霊の願いを叶えるために、再びこの場所に足を運んでいる。依頼主の心に響く絵を描くには、まずは己の心を動かすことが大切だった。

 意を決し、直行はゆっくりと暖簾をくぐった。

「……"紫乃”という女を出してほしい」

 番頭に向かってそう告げると、奥にいた女衆たちがざわめいた。

「しの……?」

「あの紫乃のことかい?」

「おや、最近その名前を出す客なんてめっきり減ったもんだけど……」

 番頭は鋭い目を向け、じろりと直行を見据えた。直行は怯えたように首を引っ込める。

「あんた、新造でも見間違えたんじゃないか?」

「いや……間違いない。紫乃に会わせてくれ。」

 直行の真剣な眼差しに、番頭はしばし考え込むように唸った。そして、手をひらひらと振ると、奥にいた若い遣り手婆に指示を出した。

「おい、お琴を呼んできな」

 その言葉に、直行の心臓が跳ねる。

(お琴……?)

 なぜその名前が出てくるのか、直行にはすぐに理解できなかった。

 しばらくして、障子の向こうから、しゃなりと歩いてくる女の気配がした。きらびやかな衣擦れの音とともに、甘い香が漂ってくる。

 そして、現れたのは――

「まあ、こんなところでまたお会いするなんてねぇ」

 鮮やかな紅を引いた唇が、艶やかに微笑む。

 そこに立っていたのは、直行がかつて関係を持った遊女、お琴だった。

 直行は、思わず息を呑む。

 (なぜ、紫乃じゃなくて、お琴が……?)

 お琴は、直行の驚きを楽しむように、にやりと微笑んだ。その目は、懐かしさなど微塵もなく、ただ獲物を見定める女の目だった。

「どうしたの? そんなに驚いた顔をして。まさか、あたしのことをもう忘れた、なんて言わないでしょうね?」

 妖艶なくすくす笑いとともに、お琴が直行に一歩近づく。その仕草は、まるで獲物に忍び寄る蛇のようだった。

 直行の背筋に冷たい汗が流れる。

(これは……えらいことになりそうだ)

 だが、ここで引くわけにはいかない。幽霊・佐吉のために、直行は腹をくくるしかなかった。

 お琴は、まるで蜘蛛が獲物を糸へ誘い込むように艶然と微笑み、「こっちよ」と手招きする。朱塗りの長爪が艶やかに光る。一瞬、直行は躊躇した。だが、覚悟を決め、ゆっくりと彼女のあとを追う。

 お琴は柱に手を添えながら歩き、やがてひとつの部屋の前で立ち止まった。錆びた金具がついた引き戸をすっと開けると、ふわりと柔らかな香の匂いが漂う。

「さあ、お入りなさいな。そんなに怖がらなくても、食ったりはしないわよ」

 くすりと笑いながら、艶やかな手つきで帳を払う。直行はゆっくりと戸を潜った。背後で静かに戸が閉められる――まるで逃げ道を断たれるかのように。

「それで、私にお話ってなぁに?」

 お琴はゆったりと座布団に腰を下ろし、盃を手に取る。その声には誘うような響きがある。だが、その瞳は冷ややかで、甘さの欠片もなかった。

 直行は緊張を隠しながら、向かいの座布団に腰を下ろす。

「なぜ"紫乃"を呼んで、あなたが出てきた?」

 問いかけると、お琴はイタズラっぽく笑い、盃を軽く揺らした。

「だって、私が"紫乃"だもの。当然でしょう?」

「……何を馬鹿なことを……」

 お琴――いや、紫乃と名乗った彼女は、朱に染まった爪を揃え、三日月の形をした唇に当てる。

「お馬鹿なのはあなたよ、直行さん。私ね、かつては別の名前で働いていたのよ」

「……別の名前?」

 紫乃は盃の中の酒をくるりと回しながら、ゆったりと微笑んだ。直行は息を整え、低い声で問いかける。

「……佐吉という男を知っているか?」

 盃を口に運ぼうとしていた紫乃の手が、ぴたりと止まる。

「佐吉?」

 唇に触れかけた盃をゆっくりと下ろし、直行を見つめる。豊かな表情が一瞬こわばる。その瞳には、驚きとも取れる微かな揺らぎがあった。だが、すぐに面白がるかのような微笑みを浮かべる。

「ええ、知っているわ」

「詳しく聞かせてくれ」

 思わず身を乗り出した直行。しかし、紫乃はすぐには答えなかった。まるで子供に意地悪をするような表情で、長い爪を盃の縁になぞらせる。

「そんなに知りたい?」

 艶めいた声音で問いながら、くすくすと笑う。その笑いには、どこか挑発的なものが混じっていた。直行はじれったさを覚えながらも、黙って頷く。すると、紫乃は唇にいたずらっぽい笑みを浮かべたまま、しなやかに身を乗り出した。

 そして、直行の耳元で囁く。

「だったら、もう一度、私の相手になってちょうだい」

「……は?」

 直行の心臓が、一瞬大きく跳ねた。

 紫乃は、まるで直行の動揺を楽しむかのように、ゆっくりと首を傾げる。そして、細い指先で直行の顎を軽く持ち上げ、挑むように囁く。

「私は本気よ。あなたが私と夜を共にすれば、佐吉のこと、全部話してあげるわ」

 直行は息を呑む。

(また、あの夜のようになるのか?)

 美しい女だ。何もかも計算し尽くした艶めかしさを纏い、男を惹きつける仕草を知り尽くしている。それは、かつて共に過ごした夜に嫌というほど思い知った。こんなにも魅力的な遊女と夜を共にすることが、嫌なはずがない。

 ただ――彼女のあまりにも強欲な様子には、ついていけなかった。自分を意のままにしようとする女を、直行はどうにも苦手だった。

(もし自分の趣向に合っていれば、それなりに楽しめたのかもしれないが……)

 紫乃のやり方は、どうにも直行には馴染まなかった。

 紫乃は酒を舐めるように飲みながら、細い指先で着物の襟元を軽くなぞる。その仕草は、誘うようでもあり、試すようでもある。

 直行は盃を置き、ゆっくりと息を吐いた。

「……わかった」

 紫乃の瞳が、わずかに細められる。

「佐吉のこと――それから、お前のことを教えてくれるのならば、受け入れよう」

 その言葉を聞いた瞬間、紫乃の口元がわずかに釣り上がった。まるで、思い通りになったとでも言わんばかりに。

「ふふ、賢い選択ね」

 そう囁く彼女の声は甘く、しかしどこか冷ややかだった。

 盃の中の酒が、灯りに照らされて妖しく揺れる。

 長い夜が始まろうとしている――。

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