表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
艶筆  作者: 佐々山
26/31

月夜に語る

 遊郭――艶やかな灯りが揺らめき、花魁たちが華やかに微笑むそこは、男たちにとって夢の世界。しかし、そこにすべてを捧げ、人生を狂わせた男がいた。

 その名も"佐吉(さきち)"。

 佐吉はもともと真面目な商人だった。堅実に働き、着実に商いを広げる、ごく普通の男だった。しかしある日、仕事の付き合いで遊郭へ足を踏み入れたことが、彼の運命を大きく変えてしまった。

 そこで出会ったのが、伝説の花魁「紫乃(しの)」。

「佐吉さん、ようおいでなさいました。」

 初めて見た紫乃は、夢のように美しかった。華やかで、気品があり、話も上手い。彼女の一挙手一投足が、まるで絵のように洗練されていた。佐吉は、その瞬間、恋に落ちた。

 酒が回った勢いもあったのだろう。気づけば、口をついて出ていた。

「紫乃さん……俺と夫婦になってくれ!」

 紫乃は、まるで子どもをあやすように微笑んだ。

「まぁ、私がどれだけの男にそう言われてると思っているの?」

 軽くあしらわれたが、それでも佐吉は諦めなかった。

 商売で得た利益をすべて紫乃に貢ぎ、夜な夜な通い詰めた。彼女のために金を惜しまず、ただ彼女の笑顔が見たいがために、財を投げ打った。

 ある晩、紫乃がふと笑いながら言った。

「そのうち、私の値が下がったら、買い取ってくれる?」

 冗談めかしたその言葉に、佐吉の心は激しく揺れた。

 (紫乃さんを、俺のものにするんだ)

 本気だった。紫乃のために、彼は全財産をつぎ込んだ。身請けをするために、ありったけの金をかき集め、必死で商いを続けた。

 だが——あと少しのところで、金が尽きた。

 商売は傾き、借金がかさみ、ついには破産。それでも彼は紫乃を諦めなかった。何もかもを失い、惨めな姿になっても、紫乃の元へと通い続けた。

 (紫乃さんと結ばれるなら、俺はなんでもする!)

 しかし、紫乃の態度は次第に変わっていった。はじめは笑っていた彼女も、次第に面倒そうな顔を見せるようになり、やがて、あからさまに冷たくなった。

 そして、とうとう決定的な言葉を口にした。

「もう来るんじゃないよ……惨めよ、佐吉さん……」

 その声には、かつての甘やかさは微塵もなかった。ただの客。いや、かつての客を見下す、醒めた目をしていた。

 その夜、佐吉は力なく吉原をあとにした。

 そして、それ以来、床から起き上がることもできなくなった。紫乃の言葉が胸に突き刺さり、何も喉を通らなかった。

 日が経つにつれ、体は弱り、最後には衰弱しきって、そのまま死んでしまった。

 しかし——死んだはずの彼は、なぜか、男の象徴そのものの姿で幽霊になっていた。

 なぜこんな姿になったのか、自分でも分からない。ただ、女への――紫乃への執着だけが、未だに消えていなかった。


 

「愛されたかった……でも、愛されたのは財布だけだった……!」

 海をぼーっと眺めながら、幽霊は唇を噛み締めた。

 悔しさを抱えて死んだ佐吉は、幽霊になっても女には見向きもされず、逆に石を投げられる始末だった。

「おい、あのモグラみたいなの、また出てきたぞ!」

「こりゃまたキモい化け物だな!」

 佐吉、二度目の絶望。

 直行は、幽霊の嘆きを聞きながら、冷めた気持ちで海を眺めていた。確かに、佐吉の話は哀れだった。だが、遊郭に金を注ぎ込みすぎて身を滅ぼしたのは、結局、自業自得だろう。

(それに、遊郭はろくな思い出がない……)

 直行は、無意識に鼻をすすった。遊郭に行って、お琴という女に精力を吸い取られた悪い経験がある。金も、心も、まるで何かに食い尽くされるように消えていった記憶。あれはいい思い出ではない。むしろ、思い出したくもない。

 それでも、目の前の佐吉を見ていると、さすがに気の毒に思えてくる。死んでもなお、誰にも愛されることなく、踏みにじられ、見苦しい存在として扱われ続ける――そこには、惨めさしかなかった。

 直行は、ちらりと佐吉の方を見た。うなだれた幽霊の背中は、どこか自分の過去と重なる気がした。違うのは、直行にはまだ生きる時間が残されているということだけ。

(俺も、もし死んだら、こんな風になるのか……?)

 そんな考えが頭をよぎり、直行はごくりと唾を飲み込んだ。まるで佐吉の姿が、自分の未来のように思えてきたのだ。

「……まあ、お前の気持ちも、分からなくはないがな」

 ぽつりと漏れた言葉が、佐吉に届いたのかどうか。海風にさらわれるように、波音の中へと溶けていった。

 直行は、遠くの海をじっと見つめた。月光に照らされた水面が、きらきらと揺れている。そして、静かに拳を握りしめ、立ち上がった。

「俺なりに、精一杯描いてみるよ」

 まっすぐな決意が込められた言葉だった。

 その瞬間、佐吉は目を見開いた。驚きと、そして抑えきれない喜びがにじみ出る。

「おお!」

 佐吉はこれまで、誰からも相手にされず、石を投げられ、嘲笑われるばかりだった。だからこそ、自分を認め、手を差し伸べてくれる人が現れたことが、まるで奇跡のように思えた。

 しかし、直行は念を押すように口を開いた。

「ただな、完成までにはそれなりに時間がかかる。それは覚悟しておけよ」

 さらに、少し鋭い目つきで釘を刺す。

「くれぐれも、通りかかる女に手を出すなよ」

「お、おう! もちろんだとも!」

 佐吉は慌てて両手をぶんぶん振った。まるで自分自身に言い聞かせるように、必死で繰り返す。

「いくらでも待つさ! そうさ、ワレなら欲を抑え込めるさ!」

 勢いよく突き上げられた短い腕が、夜空の下で滑稽に揺れた。

 その姿に、直行は思わず「ははっ」と笑ってしまう。見上げれば、まん丸の月がどこまでも静かに輝いていた。

(さて……そうと決まれば、覚悟を決めるしかねェな)

 静かに息を吐く。

 潮風が頬を撫でるたび、心の奥にあった迷いが少しずつ晴れていくのを感じた。

 直行は、すでにやるべきことを決めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ