もぐら騒ぎ
翌朝、直行は布団の中で目を覚ましたものの、昨夜の出来事が現実だったのかどうか自信が持てなかった。しかし、袖の中の春画の試し描きが無惨に皺くちゃになっているのを見て、直行は頭を抱える。
「夢だったら、どれほど良かったか……」
あんなにも気色の悪い幽霊が現世にいることが奇妙で、大きなため息をつくと、のそりと起き上がった。
長屋の外は、すでに朝の喧騒に包まれている。戸を開けると、魚売りの声や、子供たちのはしゃぐ声が飛び交っていた。直行はぼんやりと頭を掻きながら、外の空気を吸い込んだ。
と、その時——
「なあなあ、聞いたか? 昨晩、神楽酒場の近くの路地で妙なもぐらを見たって話だ!」
「聞いた聞いた! 夜更けに地面がもごもご動いてな、何かが這いずってたんだとよ!」
「それが、どうにも普通のもぐらじゃねェって話だぜ……」
直行は耳を疑った。
(まさか……!)
気になって、井戸端で話し込んでいる連中にさりげなく近づいた。
「どうも、妙な形をしてたらしいんだよ」
「妙な?」
「そうだ、もぐらにしちゃ、なんというかこう……妙に太くて……な?」
「なんだよ、それ。お前、見たのか?」
「いや、直接は見ちゃいねェが、昨晩遅くに裏の地面がぬるりと盛り上がって、それがぐにゃりと形を変えながら潜っていったんだと。見たやつは驚いて逃げたらしいがな」
「気味が悪ィな……まさか化け物か?」
直行は、がっくりと肩を落とした。
(……間違いねェ。あの幽霊だ。)
呆れ果てた。まさか、幽霊の出没が「奇妙なもぐら騒ぎ」になっているとは。
おそらく、幽霊は地中をうごめきながら、あちこちを徘徊していたのだろう。もぐらのように……いや、それ以上に悪趣味な目的で。
幽霊は必ずまた現れる。しかも、直行が春画を描く約束をしたと思っている。そう考えると、あまりの気味の悪さに身震いした。
(とにかく、描くと言ったからにはまた会いに行かないとな。このまま逃げたらあいつに取り憑かれてしまうかもしれねェ。)
直行は額を抑えた。
数日後の夜。直行は覚悟を決め、幽霊と遭遇したあの路地へと足を運んだ。
長屋での「奇妙なもぐら騒ぎ」は一時的な盛り上がりを見せたものの、目撃者が少なかったこともあり、結局は「酔っぱらいの見間違いだろう」と片付けられた。しかし、直行は知っている。あのもぐらの正体が「男根の幽霊」であることを——。
路地裏は、前回と変わらず闇が深い。夜の江戸は静まり返り、遠くでは微かに猫の鳴き声がする。
(本当に、また来るのか……?)
不安を感じつつも、直行は辺りを見渡した。
すると——
「……ぬぅ……」
地面から、以前と同じ幽霊が現れた。
だが、その姿を見た直行は、思わず息を呑んだ。
幽霊の体は傷だらけだった。全身に擦り傷のような痕があり、ところどころ土がこびりついている。顔も腫れ上がっており、片目と思わしき部分が少し腫れているように見えた。
直行は眉をひそめた。
「だ、大丈夫か? どうしたんだよ?」
「……聞くな」
幽霊は肩を落とし、ぐったりとした様子で宙に浮いている。
「いや、聞かないわけにはいかないだろう。こんなにボロボロになって……。」
幽霊はしばらく沈黙していたが、やがてポツリと語り出した。
「……ワレな……成仏するには、どうしても女を抱かねばならぬと思うた」
幽霊は深くため息をついた。
「この数日、夜の町を彷徨い、美しい娘を見つけては、声をかけてみたのじゃ」
「声を?」
「『そなた、美しき姫君……このワレと契りを交わしてはくれぬか……?』」
直行は顔を覆いたくなった。
(こいつ……やりやがった……)
「で、どうなった?」
「石を投げつけられた」
「……だろうな」
幽霊は地面から少し浮かんだまま、大きな亀頭をガックリと下げた。
「いや、なぜじゃ……ワレはただ、真心を込めて求めただけなのに……」
「お前なァ……。まず幽霊が女を口説く時点で問題だろ。それに、普通の娘にそんなこと言ったら、そりゃ怖がられるに決まってるだろう。」
「……ワレは、そんなに恐ろしい存在なのか?」
幽霊はしみじみと呟いた。
直行はため息をつきながら、ふと目を逸らした。確かに、この幽霊の姿は怖い。青白く光り、ふわふわと浮いている。それに、何より「男根の幽霊」だ。いくら言葉遣いが丁寧でも、そんな奴が夜な夜な女性に声をかければ、恐怖でしかない。
幽霊は言葉に詰まり、情けない表情を浮かべた。直行は、ふうっと息を吐くと、幽霊の傷だらけの姿をじっと見つめる。
(……こいつ、本気で女を抱かないと成仏できないと思ってるんだな……)
なんとも哀れな存在だった。
直行は、無意識のうちに腰の帯を締め直し、立ち上がる。
「……仕方ない」
「む?」
「お前がそんな目に遭っても諦められないってんなら……俺がどうにかしてやるしかねぇだろう。」
幽霊の目がキラリと光った(ように見えた)。
「ほ、ほんとか!」
「ただし、女を襲ったり、勝手に声をかけたりするなよ。俺が、お前を満たせるような春画を描こう」
「おお……!」
幽霊は歓喜のあまり、ふわふわと飛び跳ねた。
「だが……俺には何を描けばいいのかわからん。正直、お前が期待するほどのものを作れないと思っている。」
幽霊は、直行の言葉にふわりと揺れながら、丁寧にお辞儀をした。
「……ワレの生前の話を、聞いてくれるのか? そうしたら、お前さんの筆も進むかもしれぬ。」
「おお、話してくれるか。話を聞かない限りは、どんな春画を描けばいいか見当もつかないからな。」
直行は額のあたりを掻きながら、深く息を吐いた。隣に浮かぶ幽霊は、静かに夜空を仰いでいる。江戸の空には、雲ひとつない満月がぽっかりと浮かび、淡い光が二人を照らしていた。
ふと、直行は思いついたように「なぁ」と声をかける。
「海へ行かないか?」
「海?」
「どうせ夜は暇なんだ。それに、お前の話をじっくり聞くなら、もう少し開けた場所の方がいい」
幽霊は少し考えた後、ゆるりと頷いた。
「なるほど、それは良い考えじゃ。そこへ行こう」
こうして、直行と幽霊は夜の江戸を抜け、潮風が吹き抜ける丘へ向かった。
潮の香りが鼻をくすぐり、遠くから波の音が静かに響いてくる。月明かりに照らされた丘の上、二人は並んで腰を下ろした。片や人間の絵師、片や成仏できぬ男根の幽霊——なんとも奇妙な組み合わせである。
「俺、実はな――」
しばらくの沈黙の後、幽霊はぽつりと語り始めた。




