冷たい依頼
江戸の夜は、闇が深いほどに静寂を増す。遠くで響く犬の遠吠えと、どこかの家から漏れる三味線の音。そんな響きに囲まれながら、直行と幽霊は一定の距離を取りつつ対峙している。
「なんとか成仏させてくれ……!」
幽霊は青白くぼんやりと揺れながら、必死の形相で直行に縋った。直行は腕を組み、渋い顔でため息をつく。
(……なんで俺がこんな幽霊の未練に付き合わなきゃならねェんだよ……)
幽霊が成仏できない理由は「女を抱けずに死んだから」。
(いや、だからって、どうしろってんだ?)
直行がため息をついたそのとき――
「ん?」
幽霊の視線が、直行の手元に向いていた。彼の袖から、細長い巻紙の端がちらりと覗いている。
それは、直行が日頃描いている春画の試し描き。幽霊の目が、ぎらりと光った(ように見えた)。
「……ほう?」
直行は嫌な予感がして、慌てて紙を袖の中へ押し込んだ。直行は苦笑して何事もなかったかのように月を見上げた。だが、幽霊はぬるりとした動きで直行にじり寄る。
「……今のは……なんじゃ?」
「気のせいだ」
「いや、見えたぞ。確かに女の乳房が見えた。」
「……違う、これはただの……」
「お前、絵師かァ!」
「違……わねェけど……!」
隠しようがない。直行は観念し、盛大なため息をついた。
「――そうだよ、俺は絵師だ。で、たまにこうして春画も描いてるんだ。」
「な、なんと……!」
幽霊は歓喜に震えるように、ふわふわと揺れた。直行は自身の袖を恨めしそうに睨みながら、肩を落とした。
「これは運命じゃろ! こんなにも美しく、妖艶で、官能的な絵……! まさにワレが求めていたもの……!」
「な、何が運命だ。や、……まさか春画を描けなんて言わないよな?」
幽霊は直行の言葉など耳に入らぬまま、感動のあまり震えている。
「……ワレは……ついに、女と交わることができるのか……?」
幽霊はずいっとにじり寄った。
「頼む! ワレを成仏する春画を描いてくれェ!」
「……ぐっ……」
直行は苦々しく口をつぐんだ。
(確かに、依頼が来なくて困っていたが……こんな怪物に絵を描くとは恐ろしい。)
しばらく、二人の睨め合いが続いた。どちらかが折れるまで、この路地からは抜け出せないだろう。
(ぐぬぬ……)
夜の路地裏、静寂の中、男根の幽霊の期待を一身に背負いながら、直行の心が――やむを得ず動き出す。まさか幽霊相手に春画を描かされることになるとは思わなかったが、こいつを成仏させるためには、どうやらそれしか道はなさそうだった――。
「本当か! ワレのために春画を描いてくれるのか! ありがたや、ありがたや……」
幽霊が歓喜に震え、土色の身体をビュンビュンと揺らす。まるで歓喜に沸く大名の家臣のようだ。
一方の直行は、月を見上げながら心の底から深いため息をついた。
「……ちくしょう、なんでこんなことになったんだ……」
男根の幽霊相手に春画を描くなんて、聞いたことがない。いや、幽霊に春画を依頼された絵師なんて、江戸の歴史においても初めてではないか?
肩を落とす直行に、幽霊は満面の笑み(のようなもの)を浮かべて、ぐいっと近寄った。
「さぁ、さっそく描くがよい!」
「ちょっと待て。今すぐ描けって言われても、ここは路地裏だぞ? しかも夜だ。暗くて細かい線が引けるわけねぇだろ」
「む……それもそうじゃな」
幽霊は一瞬考え込み――そして、コクンと頷いた。
「仕方あるまい。今日はもう遅いし、ワレは帰るとするか!」
「おっ、帰るのか? そりゃ助かる」
直行は安堵の息をついたが、次の瞬間、幽霊がふわりと宙に浮き、地面の方へとスルスルと沈み始めた。
「……ん?」
直行は目を疑った。幽霊はそのまま、まるで水に沈むかのように、徐々に地面の中へと消えていく。
「お、おい!? どこ行くんだよ!?」
「ワレは土の中に住んでおるのじゃ!」
直行はぎょっとした。
「えっ……幽霊というと、空を漂うものじゃねェのか?」
「ワレは違う!」
幽霊はすでに半分以上、土に埋まっている。
「ワレはな、地中を移動できるのじゃ。モグラのように土の中を這い回ることで、この世を行き来しておる!」
(地中幽霊――そんなものがあるのか?)
直行は目を丸くしたが、幽霊は当然のように続ける。
「ワレが地中に潜る理由はな、単に住処として居心地が良いからではないのじゃ」
完全に首まで土に埋まりながら、幽霊はしみじみとした声で言った。
「……膨大になった性欲を解消するためじゃ!」
「……はぁ」
直行の思考が停止する。
「地面の中を出入りすることで、満たされぬ欲を発散しておるのじゃ!」
「……」
直行は思わず後ずさった。そして寒くもないのに身震いをする。
(……つまり、幽霊のマスタベーションってことか? 地中を出たり入ったりして……って、ああ、気味が悪い。)
幽霊はさらに沈み、もう頭のてっぺんだけが見えている。
「では、また来るぞ! 次に会う時は、ワレの春画を楽しみにしておる!」
「お、おい!?」
「さらばじゃ!」
最後の言葉を残し、幽霊は完全に地中へと消えていった。その場には、静寂だけが残った。




