幽霊の未練
直行は何度も目をこすった。だが、何度こすろうとも、それは幻ではなかった。
闇の中で、男根の形をした幽霊が、ぼんやりと青白く光りながら、ゆらめいているのだ。
「う、うわぁあぁ!」
直行は断末魔のような悲鳴を上げると、細い路地を一目散に駆け出した。だが、背後から聞こえるのは、ぬるりと地面を這うような不気味な音。
(ダメだ、絶対に見てはいけないモノだ! 逃げろ、逃げろ――!)
額に汗が滲み、鼓動が喉元まで響くほどに速まる。だが――
「うわぁッ!」
直行はつまずいた。勢いのまま地面に転がり、尻餅をつく。焦っているときほど転びやすいのが彼の悪い癖だ。
恐る恐る振り返ると、闇の中からそれはゆっくりと姿を現した。白く、歪んだ輪郭がぼんやりと浮かび上がる。立ち上がろうとするも、腰が抜け、手足がジタバタと空を切るばかり。
「やめろ! 近寄るな!」
地面に手を伸ばし、指先で砂利を掴むと、必死に投げつけた。しかし、幽霊はまるで気にも留めず、静かに近づいてくる。
「……オマエ、オンナ、カ」
「……へ?」
幽霊はわずかに揺れながら、低く湿った声で問いかける。
「オマエ、オンナなの……か?」
「お、女……?」
「お前は、女なのか!」
声が突如、鋭くなる。
「――ち、違ェ! 俺は男だ……!」
直行は尻で後退りしながら、必死で叫んだ。月光に照らされた幽霊の姿は、土色にくすんだ奇妙な輝きを放っている。
その瞬間、幽霊の動きがピタリと止まった。まるで力を失ったかのように、ゆらりとたゆたう。
「……なんだ、男かァ……」
先ほどのぎこちない喋りとは打って変わり、妙に流暢な口調。低く湿った声が、夜の静寂に溶けていく。
直行は唖然としたまま、それを見つめた。
(いや、そもそもこいつ……幽霊なのか? 男根の形をした怪異なんて、聞いたことがない……)
喉の奥が引きつるような感覚の中、なんとか声を絞り出す。
「お、お前は……なんだ? 幽霊なのか?」
「そうさ、霊だよ。ったくよぉ、お前が女だったら成仏できるかもしれなかったのによぉ……」
直行は呆気にとられた。言葉の意味が理解できないというより、その見た目と発言があまりにも噛み合っておらず、脳が処理を拒否している。
(……幽霊って、もっとこう、怨念とか恨みとか、そういうもんじゃないのか?)
期待していた怪異とはかけ離れた、妙に人間臭い亡霊を前に、直行はなんとも言えない気分になった。まるで怖がらせる気のない妖怪と出くわしたような、拍子抜けした感覚。
そして目の前の幽霊は、ぼんやりと光る男根の先――いや、頭の部分を、ヌメヌメした手で切なそうにさすっている。
(……なんなんだよ、この状況……)
直行は肩をすくめ、深々とため息をついた。
「……おい、幽霊。女がよかったってのは、どういう意味だ?」
直行はだんだん恐怖心が薄まると、泥で汚れた手をはたいて立ち上がった。幽霊は少し寂しげにうつむいた(ように見えた)。
「女だったら襲えたかもしれねェのによ」
「……は?」
直行の眉間に深い皺が刻まれた。思わず聞き返すが、耳を疑うような言葉が確かに響いた。
(まさか、強姦魔の成れの果て……?)
一瞬で警戒心が跳ね上がる。直行は身を引き、全身の神経を研ぎ澄ませた。だが、幽霊は彼の反応を察したのか、慌てて身を揺らしながら叫んだ。
「違う、誤解するでない! ワレにも色々事情があるのじゃ!」
その必死な様子に、直行は訝しげに目を細めた。
「……事情?」
すると幽霊は、一拍の沈黙の後、どこか哀愁を漂わせながら語り出した。
「ワレは……この姿になった理由も、女を求める理由も、全部、生前の未練にあるのじゃ……」
直行は思わずため息をついた。興味本位で続きを聞いてみるべきか、それとも全力で逃げるべきか――。
「語り合うなら幽霊仲間としてくれ。」
「待ってくれ! ワレには話し相手も友もいない! お前がただの男なのは残念だが……この際ワレの話に付き合ってくれい!」
直行は半ば呆れながら幽霊を見下ろした。いや、見下ろしているつもりだったが、そもそも顔がどこなのか分からない。どこを見ればいいのか迷い、なんとなく中央付近に視線をやる。
すると、幽霊はしょんぼりと揺れながら、ぽつりと呟いた。
「ワレは、生きている間に、女を抱けなんだ……」
「……は?」
直行の思考が一瞬停止した。強姦魔幽霊かと思いきや、まさかの“童貞こじらせ幽霊”だった。しかも、未練たらたらで成仏できずにいる厄介なタイプである。
「だから、未練が残っておるのじゃ。ワレはこの世を彷徨い、幾度となく女を探したが……皆、逃げる。怖がる。ギャアア! ってな!」
幽霊は身振り手振りを交えながら、当時の恐怖を演出してみせた。が、実際のところ、それほど怖くはない。むしろ情けなく直行の目には映った。
「そりゃ、逃げるだろな。……お前の見た目、どう考えても恐ろしすぎる。」
「やはり、そうかぁ……」
幽霊はしょんぼりと萎れるように縮こまった。いや、縮こまったという表現が正しいのかは分からないが、明らかに元気がなくなっている。
「で、お前は、なんでそんな姿になったんだ?」
直行は思わずため息をついた。なんだかんだで、この情けない幽霊に少し同情してしまう。いや、正確には同情というより、興味が湧いてきたのかもしれない。こんなにも切実に「女を抱かずに死んだ未練」を語る幽霊に出会うことなんて、そうそうないだろう。
「ワレは……ワレは、女を抱かぬまま死んだ。そして、死んだ瞬間、ワレの魂はこの姿となった……! すなわち、ワレの一番強かった未練、それが……男根なんだ。」
「……はぁ」
幽霊は顔を覆って肩を振るわせている。
「気づいたらこの姿だった! 成仏しようにも、女と交わらねばワレの未練は消えぬ……!」
幽霊は必死に訴えたが、直行の目にはただの欲望にまみれた亡霊にしか映らなかった。
「成仏っていうより……煩悩の権化じゃないのか?」
「う、うるさい! ワレは真剣なのじゃ! お前は分かっておらぬ! この苦しみを!」
幽霊はぐにゃりと揺れながら、まるで嘆くように叫んだ。しかし、直行は冷めた目でそれを眺めていた。
「……お前、本気で成仏したいのか?」
「無論じゃ! ワレはいつまでもこのような姿で彷徨いたくはない! さればこそ、こうして女子を探しておるのじゃ。こうなったら、いっそ力ずくで――」
「だからって襲うとか選択肢に入れるな! お前、それじゃただの犯罪霊だろ!」
直行は思わず幽霊を指さし、目を釣り上げた。幽霊はふるふると震えながら、申し訳なさそうに揺れた。
「だが、ワレはどうすれば良いのじゃ……?」
幽霊は悲痛な声で言った。
直行は腕を組み、大きくため息をついた。このまま放っておけば、いつかこの幽霊は町中の女に片っ端から襲いかかろうとするに違いない。それは大問題だ。
「……つまり、お前は『女を抱かずに死んだ未練』を晴らさなきゃ、成仏できないってことだよな?」
「まぁ……そうなろうなァ」
幽霊は泣く泣く頷く。
(まさか、幽霊に成仏のアドバイスをすることになるとはな……)
直行は夜空を仰ぎ見た。江戸の真夜中、薄暗い路地には提灯の明かりも届かない。どこからか、酒と醤油が入り混じった夜の香りが漂い、闇の奥では川のせせらぎがかすかに聞こえた。