理春の試練
池田直行こと、池田理春は困っていた。
「依頼が来ねェ……!」
清吉、彦兵衛と共に雅号を決めたあの日から、すでに半年が経つ。その間、驚くほど春画の依頼は途絶えてしまった。
最初は順調だった。仏僧からの依頼を皮切りに、大名のために描いた春画は評判を呼び、ついには門下仲間の彦兵衛まで「俺にも頼む」と言ってきた。自然と仕事が舞い込んでくるようになり、このまま名が広まるのも時間の問題だと思っていた。だが――
「どうしてこうなった!」
直行は長屋の畳の上で大の字になり、天井を仰いだ。
依頼が途絶えた理由は、単に「春画の出来が悪かった」わけではない。そもそも、絵の世界はそんなに単純なものではなかった。たとえ腕が良くても、それだけで次々と依頼が舞い込むほど甘い世界ではない。世間には名のある絵師がひしめき、評判が立ったからといって安定して仕事が入る保証はなかった。特に春画のような裏稼業では、口伝えで依頼が回ることがほとんどだ。一度流れが止まれば、再び動き出すまでに時間がかかる。
「春画ってのはよ、もっと情熱とか勢いが必要なんじゃねェか?」
そう言ったのは清吉だった。彦兵衛も「まあ、俺の趣味には合ってたが、色気より理屈が勝ちすぎるってのはわかる」とこっそり苦笑した。
実は、直行の春画が妙に「理屈っぽい」と評され始めたのが、依頼が減った一因でもあった。大名の依頼を受けた際、細部にこだわりすぎた結果、春画というより美術作品のようになってしまった。加えて、仏僧の伝手で広まったせいか、妙に格式ばった印象を持たれることになったのだ。
「結局、春画に理性なんていらねェってことか……」
直行は深くため息をついた。
彼が目指していたのは、単なる猥雑な春画ではなかった。美しさと官能性を兼ね備えた、見る者の心を動かすもの――そう思って描いてきたが、どうやら世間の求める春画とは少しズレていたらしい。
畳に寝転んだまま、直行はぼんやりと天井を見つめる。このまま依頼が来なければ、いずれは春画師として大成することを諦めるしかないかもしれない。
直行は目を瞑ったが、どうにも頭が働いて眠れなかった。
(あぁ、くそッ!)
畳に横になっても、心の中には重たい霧のようなものがまとわりついて離れない。溜息をつきながら、直行は寝床を蹴って起き上がった。
「……ちょっと歩いてくるか」
そう呟き、羽織をひっかけると、そっと戸を開けた。
外はしんと静まり返っていた。
昼間は行き交う人々で賑わう町も、夜更けともなれば人気がなくなり、提灯の灯りだけがぽつりぽつりとある。屋台の片付けを終えた職人がぼそぼそと話しながら帰っていくのが遠くで聞こえ、川辺の方では三味線の音が微かに響いていた。
だが、そんな音も、夜の深まりとともにゆっくりと消えていく。
直行は長屋を出て、あてもなく歩き出した。足が向かったのは、町はずれの裏道だった。
表通りにはまだ酔客がちらほらといるが、一歩横道に入れば別世界だ。細く曲がりくねった路地には、誰の気配もない。ぼろぼろの塀が並び、風にあおられた古い紙屑が地面を舞っている。灯りもまばらで、月明かりがなければ足元すら見えないほどの暗闇だった。
このまま川沿いまで歩いてみるか――そんなことを考えていたそのとき。
――ザッ……ザザ……。
どこかで何かが動く音がした。
「……ん?」
直行は足を止めた。
風が吹いたのかとも思ったが、それにしては音の質が違う。誰かがそこにいるのか? しかし、この路地は行き止まりで、夜中にこんな場所に人がいるはずがない。
じっと耳を澄ませると、かすかに地面を擦るような音が続いていた。
(……ネズミか?)
直行は軽く首をかしげ、暗闇を覗き込んだ。
――そして、それを見た。
ぼんやりと浮かび上がる、白く歪んだ影。
最初は形が分からなかった。だが、次第に目が慣れてくると、その姿がはっきりとしてきた。
「……なッ……」
直行は無意識に息を呑んだ。
それは、人の形をしていなかった。
(なんだ? きのこのような何かが……いや、だ、男性器?)
ぬらりとした輪郭。ぼんやりと発光する蒼白い肌。そして、不気味にゆらゆらと揺れながら、こちらを見ていた。