新たな名
それから一ヶ月が経った。池田直行は、相変わらず春画に没頭していた。左彦こと朋輩の彦兵衛からもらった褒美で、新しい画材をいくつか揃え、日々筆を走らせている。
硯に墨を落とし、筆先を慎重に湿らせると、紙の上に線を引く。一本、また一本。思うような艶やかさを出すためには、ただ闇雲に筆を動かすだけでは足りない。力の入れ方、筆の運び、にじませ方……どれも細かく調整しなければならなかった。
昼間は授業と仕事に追われるが、深夜ともなれば静かな灯火の下で存分に描ける。仄暗い部屋の片隅に座り、誰に見られるわけでもなく、ただ己の手元と向き合う時間は、ひどく心を満たした。
(なんでもない日々が一番幸せなんだよなァ)
ふとした幸せを噛み締める直行。そんな穏やかな時間が、不吉な出来事の前触れだとも知らずにいた。
ある日、いつものように自室で春画を描いていると、仕事を終えた清吉が何の前触れもなくやってきた。
「おい、直行。ちょっと手伝っ――」
そう言いながら戸を開けた瞬間、清吉の表情が凍りついた。
直行もまた、筆を握ったまま動けなくなる。机の上には、妖艶な裸身の女の絵が広げられていた。清吉の視線が迷うように絵の上を彷徨い、やがて直行の顔をじっと見つめる。その目には、驚きと困惑、そしてわずかな呆れが滲んでいた。
「お前さぁ、入る前に一声かけろって、何度言ったらわかるんだ……!」
怒り混じりの声をあげながら、直行はとっさに清吉の前に立ち塞がる。
「……お前も、こんなもん描いてたのか?」
清吉の問いに、直行は息を呑んだ。そして、もう誤魔化せないことを悟る。
(ああ、もうダメだな)
そもそも隠し通せるものではなかったのかもしれない。清吉は絵師仲間の中でも特に勘が鋭く、情報屋としても知られる男だ。今日バレなかったとしても、いずれ噂を聞きつけて問い詰められただろう。いずれにせよ、この日が来るのは時間の問題だったのだ。
黙り込んだ直行に対して清吉の表情は険しく、いつもの軽口も影を潜めていた。
観念した直行は、すべてを打ち明けることにした。自分が密かに春画を描いていた理由、これまで受けた依頼、それによって得たわずかな収入、そして将来的にはこれを足掛かりに独り立ちしようと考えていることも――。
話を聞いた清吉は腕を組み、難しい顔をしたまま黙り込んだ。そしてしばらくの沈黙の後、「彦兵衛にも話したほうがいい」と言い出した。既に彦兵衛にはバレていることを隠しつつ、結局は三人で改めて話し合う場が設けられることとなった。
(はぁ、面倒くさいことになった。もっと気を引き締めて描くべきだったな……)
直行は後悔したが、もう遅い。一度バレてしまえば、あとは酒の肴になるだけだった。
翌日、薄暗い作業場の奥。長年使い込まれた木机を囲み、直行、彦兵衛、清吉の三人が向かい合う。机の上に並んでいるのは、画材ではなく酒と盃だった。
「このまま春画で食っていくつもりか?」
静かな空間に、まずは彦兵衛の低く落ち着いた声が響いた。直行は背筋を伸ばし、少し躊躇を見せた後、ゆっくりと頷いた。いつまでも門下生としているわけにはいかない。これまで学んだ筆の技と、この春画という切り口を糧に、独立を目指すつもりだった。
「うーむ」
しばらく沈黙が続いた。その間、彦兵衛が直行に意味ありげな目配せをする。それは「あのことは秘密にしろ」という合図なのか、それとも「これを機に出世の足がかりにしろ」という励ましなのか。直行には、その真意を知る術はなかった。
そこで、清吉が口を開く。
「このまま春画を描き続けて大成するなら、それも立派な道だ。だが、せっかくなら名前くらい決めたらどうだ?」
「名前……?」
「絵師として名を馳せるなら、それらしい名を持たんとな」
彦兵衛も以前から考えていたというように、ゆっくりとうなずく。
「つまり、雅号ってやつか」
「うむ。絵師ってのは、名を立てて初めて商売が成り立つもんだ。名が売れれば、それだけで客がつく。となると、今のうちに名乗る名前を決めておいた方がいいだろう。」
彦兵衛が説くように言うと、清吉もすかさず乗ってきた。
「いいじゃねえか! 俺たちで考えてやろうぜ!」
「お、おい……勝手に盛り上がるなよ」
直行は少し気が引けたが、二人はすっかりその気だった。
その時代、絵師が本名を名乗ることはほとんどなかった。特に春画を描く者は、幕府の取り締まりを避けるため、雅号を用いるのが一般的だった。また、身を守るだけでなく、画風や作品ごとに異なる個性を演出する意味もあったという。
「よし、まずは春画らしい名前にするか?」
清吉が腕を組んで考え込む。
「“春画道楽”なんてどうだ? 分かりやすくていいだろ!」
「いや、ベタすぎるだろ。それじゃまるで、ただの色狂いだ」
「“艶筆堂”は?」
「……それも露骨すぎるな」
呆れ返る直行をよそに、二人は勢いよく唾を飛ばしながら次々と案を出し合っている。
(おいおい、なんでこいつらこんなに楽しそうなんだ? これは俺にとって、人生で一番大事な門出になるかもしれないってのに……)
「じゃあ、いっそ女の名前にしちまえよ。“お藤”とか」
清吉がふざけたように言う。「確かにな」と彦兵衛が同調する。
「なんで女の名前!?」
「なんとなく、それっぽい気がしたんだが……」
彦兵衛が真顔で言うので、直行は脱力した。
「もう少し、まともな案をくれ……」
眉間を押さえてため息をつく直行。しかし、清吉は気にする様子もなく、次々とふざけた名前を口にする。
「お染、とか?」
「却下」
「お梅は?」
「却下」
「沙月――」
「絶対にない!」
「じゃあ、お蝶――」
「だから、なんで全部女の名前なんだ!」
直行が声を荒げると、清吉は盃を傾けながら「粋じゃねえか」と笑う。どうやら適度に酒が回っているらしい。彦兵衛は腕を組み、そんな二人を眺めながら静かに唸った。
「お前の絵の特徴は何だ?」
「特徴?」
ふざけ続ける清吉の言葉を遮るように、彦兵衛が問いかけた。直行は、一瞬言葉に詰まり、考え込む。自分の絵の特徴――春画とはいえ、ただの色欲ではない何かを込めていたはずだ。それは一体何なのか……。
清吉が盃を置き、直行の顔をじっと見つめた。彦兵衛もまた、真剣な眼差しで直行の答えを待っている。酔いの回った空気が、ふっと引き締まった。
直行はゆっくりと口を開いた。
「……理性、かな」
その場の空気が止まる。
「は?」
「いや、だから……俺の春画は、ただの色欲じゃなくて、理性があるというか……」
「り、理性の春画師!? そりゃあ面白れえ!」
清吉が吹き出し、腹を抱えて笑い転げた。
「いや、笑うなよ!」
直行が抗議するも、清吉の笑いは止まらない。彦兵衛も口元を抑えながら、肩を震わせている。
「くくっ……でも、それを名前に使うのも、なんか粋な感じがするな」
しばらくして、ようやく笑いの渦が落ち着くと、彦兵衛はふと真剣な表情になった。
「……まあ、確かに」
清吉も顎に手を当て、考え込むようにうなずく。
「理性……“理”の字を使った雅号にするのも悪くないな」
「例えば、“理春”とかどうだ?」
「理春……」
直行はゆっくりと口の中でその響きを転がしてみた。言葉に馴染ませるように何度か繰り返すと、じわじわとその妙味が広がっていく。まるで静かに寝かされた味噌のように、噛みしめるほどに味わいが深まる気がした。
「悪くない……かも」
直行がぽつりと呟くと、清吉と彦兵衛の顔が一気に明るくなった。
「決まりだな!」
清吉が勢いよく手を叩く。
「おう!」
彦兵衛も拳を掌で叩き、満足げにうなずいた。
("理春"か……"池田理春"とか? うん、なかなかいい。)
こうして、直行は初めての雅号を得た。名前が決まると、自然と未来のことが浮かんでくる。
(これで正式に絵師として名乗れる。さっそく依頼が来ればいいんだが……。)
期待と不安が入り混じる中、直行の頭にはさらに別の考えが浮かぶ。
(せっかくなら印を彫るのもいいかもしれないな。やっぱり雅号には、ちゃんとした落款があった方が格好がつくし……。)
名前を刻んだ朱印を押す自分の姿を想像し、胸が高鳴る。これから始まる新しい道に、ほんの少しだけ自信が湧いてきた。
しかし、この名が最初に刻まれるのが、まさか幽霊のための春画になるとは――その時の直行は、知る由もなかった。




