三度笠の向こう
――その時だった。
「うわっ――」
足元の石段に気づかず、直行は思いきりつまずいた。
(まずいっ)
ふわりと体が宙に浮く感覚がして、思わず歯を食いしばる。懐に手を入れていたせいで、とっさに受け身も取れず、このままでは顔面から地面に突っ込む――。
しかし、次の瞬間、誰かの手が腕をしっかりと掴んだ。直行は間一髪、地面に倒れ込むのを免れた。
「ありがとうございます――」
そう言って顔を上げた直行は、一瞬、目の前の光景に違和感を覚えた。そこにいるはずだった左彦の姿が、どこにも見当たらない。
(……ん? いや、待てよ。旅人姿……三度笠と口髭が取れただけの左彦さん、なのか?)
「だ、大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」
そう直行に問いかけた言葉も、確かに左彦の聞き取りやすい声だった。
(いや、違う。これは――)
「ひ、彦兵衛……!?」
目の前に立っていたのは、ぼさぼさの髪に薄茶色の道中合羽を羽織った、同じ門下の朋輩・彦兵衛だった。直行は、一瞬「左彦がどこかに隠れて、彦兵衛と入れ替わったのでは?」と考えた。しかし、冷静に周囲を見渡すと、彦兵衛の足元には見覚えのある三度笠と、奇妙に動いていたはずの口髭が転がっている。
どう見ても、左彦と彦兵衛は――同一人物だった。
「お前、なんで……?」
彦兵衛は直行の腕を掴んだまま、視線を落とした。水たまりに映る二人の影が、揺れる。
「すまない。騙して、すまなかった。」
「騙してって、お前……」
直行は言葉を失った。怒りとも悲しみともつかない感情が胸を満たし、ただ混乱の中で唇を歪ませることしかできなかった。
「えっと……春画は、その、誰かに頼まれたのか?」
「いや……違う。俺が、望んで頼んだ。」
彦兵衛はゆっくりと直行の腕を離し、落ちた三度笠を拾い上げると、遠くを見つめた。
「もう、すべて話すよ。」
――彦兵衛は、直行が大名に春画を描いているところを見かけ、旅人のふりをして自ら依頼していたのだ。同じ長屋に住みながら、わざわざ別の場所から便りを送り、素性を隠していたという。
「お前の男色春画がどうしても見たかったというのは本当だ。それに――想い人がいるっていうのも、本当だ。」
「……そうか」
直行は、それ以上何を言えばいいのか分からなかった。他人の恋愛に深入りするべきではないと思い、胸の内の動揺を隠すように、そっと視線を逸らした。
「直行」
「ん?」
突然名前を呼ばれ、直行の肩がびくりと震える。彦兵衛は真剣な眼差しで、まっすぐに直行を見つめていた。
「お前だ。俺の想い人は。」
「えっ――」
直行が言葉を失う中、どこか遠くから「とうふ〜、とうふ〜」と、のんびりした売り声が聞こえてくる。やがて、ぽとりと滴が番傘の先から落ちるのを合図にしたかのように、彦兵衛はふっと顔をほころばせ、大きく息を吐いた。
「いやぁ、言えて良かった!」
直行が呆然としている間に、彦兵衛は頭をぐしゃぐしゃとかき、まるで長年の肩の荷が降りたかのように晴れやかな顔をしていた。
「いやな、ずっと言うかどうか迷ってたんだが、もういい加減もやもやしてても仕方ねぇなと思ってよ。いやー、さっぱりした!」
直行はあんぐりと口を開けたまま、目をぱちくりさせた。
「お、おい……そんな軽いノリで済む話なのか?」
「済むとも! 好きって言ったからって、別に何か変わるわけでもなし、お前に迷惑かける気もねぇしな。」
彦兵衛は三度笠をくるくると回しながら、直行がつまづいた石段の上に立った。
「それに、こうやって言葉にしたら、なんかもう気が済んだわ。これでようやく、次に進めるってもんよ。」
直行は思わずため息をついた。なんだか拍子抜けするほど吹っ切れた様子に、さっきまでの緊張がばかばかしくなる。
「……そんなもんなのか」
「そんなもんよ。だがな、直行。お前、ちょっとでも俺のこと意識しちまったんじゃねぇか?」
「はぁ?」
「ふふん、いい顔してるぜ」
「んなわけあるか!」
からかうように肩を叩かれ、直行はむっとした顔で腕を振り払った。
彦兵衛はげらげらと笑いながら「まぁまぁ、そう言うな」と片手を振った。その飄々とした態度に、直行はなんとも言えない気分になる。
(恋に性別なんて関係ない――か)
彦兵衛を見て、改めてそう思った。人が人を想うのに理由なんてない。ただ好きだから好き、それだけだ。
「ま、何はともあれ、言えて良かったぜ。さ、二件目の茶屋に行って団子でも食うか?」
「……お前、ほんとに吹っ切れるの早いな」
「人生、思ったより短ぇからな!」
彦兵衛の屈託のない笑顔を見ながら、直行は思わず苦笑した。肩をすくめ、直行は一歩ずつ石段を下る彦兵衛の後ろ姿を見た。今思うと、旅人にしてはどうにも新調すぎる道中合羽だった。
「ああ、直行」
彦兵衛は、言い忘れていたかのように後ろを振り返った。その顔は直行にどこか切なさと悲しみを抱かせた。
「これからも、変わらず接してくれよ。同じ絵師として、傍輩としてな。」
「おう、もちろんだ。」
「それから――」
彦兵衛はにっと唇を歪ませる。そこに奇妙な口髭はなく、さっぱりとした笑顔があった。
「お前の春画、とても良かった。いずれは二十両以上の価値がある春画師にお前はなれると俺は思っている。だから、自信を持て、直行。」
直行は驚いたように息を呑み、すぐに鼻で笑った。
「二十両なんて、そんな馬鹿な。」
二十両といえば、大店の奉公人が十年せっせかと働いて貯められるほどの金額だ。たかが春画に、そんな価値がつくはずがない――そう思いながらも、彦兵衛の言葉はどこか心の奥に染み込んでいった。
「ま、そん時はお前に酒でも奢ってやるさ。」
そう言って肩をすくめる直行を見て、彦兵衛はまたにっと笑う。
春の陽が長屋の軒先を照らし、二人の絵師の笑い声が、穏やかな風に乗ってどこまでも広がっていった。




