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春はこぬ

「おお」

 遊廓に足を踏み入れた直行は、思わず感嘆の声を上げた。江戸の空が藍色に染まり、街の喧騒が静まり始める頃、そこはまるで別世界のように灯を灯している。入口の大門をくぐれば、両脇には高くそびえる楼閣が並び、その奥には無数の妓楼が立ち並んでいる。

 直行は空気の流れと、その街の掟に身を任せた。そして気づけば、遊廓での一夜が始まろうとしていた。切長の目をした美しい遊女は、優雅に杯を差し出す。「まずは一献」と囁く声は甘く、笑みを含んでいる。三味線の音が静かに流れるなか、直行は彼女の仕草を眺める。

「お琴」

 直行は遊女の名を呼んだ。酒を重ねるうちに酔いが回り、自分の目的すら曖昧になっていた。ただ、目の前に美しい女がいて、その名がお琴である——それだけが確かな事実のように思えた。

 お琴は砕けた口調で返事をし、赤らんだ頬を直行の肩に寄せた。その瞬間、胸の奥で何かがぷつりと切れた気がした。そう感じた時には、すでにお琴を押し倒していた。

 直行の手がはだけた衣の中へと滑り込む。指先が白く豊かな曲線をなぞると、直行の瞳は陶然とする。一方で、お琴の視線は挑むように鋭く、彼の肌にそっと触れた。

「あれえ、可愛え坊やだこと」

 お琴は目を細め、直行の腕の隙間をすり抜けると、そっと彼の耳を噛んだ。驚く間もなく、お琴は素早く彼に跨り、「うぶねえ」と囁きながら、その股間を弄る。

 (これは……まずい)

 お琴の巧みな腕に、直行の理性は霧のように消え、すべての意識が彼女に奪われていった。

 ──いつ果てたのかも分からない。

 目を開ければ、障子の向こうから朝日が射し込んでいた。戸の隙間から入る風が、肌にひんやりと心地よい。いつの間にか掛け布団は剥がされ、傍らではお琴が櫛で乱れた髪を整えている。

「まだ寝ていてよかったのに」

 お琴は呆然とする直行に微笑みかける。そこで、直行は全てを思い出した。己がひどく酒に酔っていたことも、女に酔わされていたことも。ズキンと痛む頭を押さえて、直行はため息を吐く。昨晩の快感が頭をよぎるだけで、それ以外のことは何も覚えていなかったからだ。艶やかな女体も、それを狂わす己も夢のまた夢のようだ。

 直行は無造作に銭をお琴に渡すと、逃げるように遊郭を後にした。お琴の凄技に打ちのめされ、もはや絵師としての観察眼も、男としての自信も粉々にされたようだった。やはり、俺に春画は早い――懲り懲りだというように直行はげっそりとした顔で足を引きずりながら、朝靄の中を歩いた。

 ふと、背後から艶のある声が響いた。

「またお待ちしていますよ、直行さん」

 振り返ることなく、ただ手を振るようにして直行は歩みを早める。

 その様子を眺めながら、お琴はくすりと微笑み、深くお辞儀をした。どうやら彼女は、すっかり直行を気に入ったらしい。

 自宅に戻る頃には、直行の肩はひどく重く、筆を持つ手すらも怠く感じられた。

「清吉はすげえや」

 直行は朋輩の精力と筆にただただ感心しながら、早々に床についた。

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