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艶筆  作者: 佐々山
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男たちの春画

 この日、直行は風呂敷に包んだ絵を抱え、茶屋へと足を運んでいた。そこは、左彦と初めて出会った場所でもある。

 外はあいにくの雨。しとしとと降り続く雨音を聞きながら、直行は番傘を差し、天を仰いでため息をついた。

 (雨の日に絵を渡すとは、厄介だな。)

 湿気が紙を傷めたり、絵具が剥がれる可能性もある。風呂敷の中の絵を時折そっと確かめながら、直行は足早に茶屋へ向かった。

 茶屋の戸を開けると、真っ先に左彦の姿が目に入った。年齢不詳の旅人姿は、ここではひどく目立つ。

「おお! 直行さん、よく来てくださいました。」

 嬉しそうに声を上げる左彦を見て、直行はふっと息をついた。三度笠を深くかぶり、雨に濡れてもそれを外そうとしない姿も、もはや見慣れたものだった。軽くお辞儀をし、直行は静かに席についた。

「雨って面白いですよね」

「はぁ」

 左彦は頬杖をつき、黄昏れたように窓の外を眺めている。直行は店のメニューをめくりながら、首をかしげた。

「だって、雨の日って、みんな傘の下でこっそり何かを考えてる気がしません?」

「……何かって?」

「秘密とか、願い事とか、ちょっとした悪だくみとか。傘の中って、ひとりだけの小さな世界でしょう?」

「へぇ……左彦さんは、雨の日に何を企んでるんですか?」

 左彦はカラカラと笑って、茶が入った器を撫でる。

「企みませんよ。ただ、雨音を聞きながら、誰かが何を考えてるのか想像するのが好きなだけです。」

 直行は苦笑しつつ、湯呑みを手に取った。窓の外では、傘の下で何かを囁き合う人々が、静かに行き交っていた。

 (やはり、絵師というのは変わり者が多いな。)

 どこか他人ごとのように考えていたが、周囲の絵師から見れば、直行もまた十分に変わり者だった。

「ああ、すみません。つい話が逸れてしまいましたね。」

 直行は、昼飯代わりに頬張っていた団子を一旦置き、軽く咳払いをする。

「絵を見せていただけますか?」

「あっ……も、もちろん!」

 直行は、懐に絵を入れていたことすら忘れていた。左彦の言葉の意味を真剣に考えていたからだ。雨の日に自分は何を思うのか――そんな些細なことに、いつの間にか思考を巡らせていた。

 はっとして、直行は慌てて懐から絵を取り出し、左彦の前に差し出す。ちょうど昼時を過ぎ、茶屋には心地よい静寂が広がっていた。奥では、食器を洗う音がかすかに響いている。

「おお……!」

 左彦は身を乗り出し、目を輝かせながら、絵を舐めるように見つめた。

 画面には、ふたりの男が絡み合う姿が描かれている。日に焼けた肌と白い肌が密着し、互いの体温が伝わるような生々しい距離感が表現されていた。日焼けした男は胸をはだけ、組み敷かれながらも相手の頬をそっと撫でるように触れている。その仕草には、淫らさとともに、どこか儚い情愛が漂っていた。もう一方の男は、相手を押し包むように身体を傾け、指先は相手の背をなぞり、喉元に唇を寄せている。荒々しい貪りではなく、名残惜しげな吸いつき。しなやかな筋肉が浮き上がる筆致には、直行の迷いのない情熱が見て取れた。

「美しい。とても、美しいです。」

 左彦は絵の縁を撫でて、満足そうに頷いた。

「特にその目が魅力的だ。私には到底描けたものではありません。」

 画面の中で、男の視線が絡み合っている。片方は伏し目がちに唇を噛み、もう片方は熱っぽく見つめながら、欲と情の狭間で揺れている。互いの想いを確かめるような、張り詰めた緊張感が視線だけで伝わった。

 直行は、小麦色の男に自分を、色白の男に沙月を重ねていた。最後に沙月と交わした言葉の記憶を春画として描き出したからこそ、生まれた作品だった。

 許されぬ恋、それでも惹かれずにはいられない想い。それは男と男、女と男、女と女――どの組み合わせにも通用する恋の本質であることを直行は知った。そんな彼の筆が生み出したのは、淫らでありながらも切なく、見た者の心をかき乱すような春画だった。

 左彦はしばらくの間、絵に見入っていた。時に歯を食いしばり、時に茶をおかわりしながら、まるで花見を楽しむようにじっくりと鑑賞している。その様子を横目に、直行は「もう少しこの色を濃くした方が良かったか」「手のしなやかさをもっと表現できたかもしれない」と、心の中で修正点を振り返っていた。

「本当に素晴らしい絵をありがとうございました。良い春画を手に入れられて満足です。」

 左彦がそう言うころ、黒い雲の切れ間から神秘的な光が差し、人々は雨上がりの道を、濡れた傘を腕にぶら下げながら歩いていた。

 左彦は懐からたっぷりの金を取り出し、直行の前に差し出した。貧乏門下生の直行は、太陽の光を浴びて輝く褒美を前に、生唾を飲み込みつつも、「こんなに頂くわけには……」と謙虚な態度を装った。

「本当は欲しくてたまらないのでしょう? いいのですよ、私の気持ちです。どうぞ受け取ってください。」

 左彦は黒々とした口髭を歪ませ、愉快そうに笑った。直行は最終的にそっと金を受け取り、茶屋を後にする。外へ出ると、雲ひとつない澄んだ青空が広がっていた。

「いやぁ、いい天気だ。本当に太陽って面白いなァ」

「ほぉ? 雨の次は太陽ですか。」

「だって、晴れた日は、みんなの考えてることが空に溶けちゃいそうじゃないですか?」

「……溶ける?」

「そう。曇りも雨もないから、隠れるものがない。人の心も、ひょっとして丸見えだったりして。」

「なるほど……じゃあ、今日は嘘がつけない日かもしれませんね。」

「ええ、だからこそ、みんなさっきより少しだけ素直になっている気がするんですよ。」

 直行は、このどこか怪しげな男の言葉に、次第に引き込まれていった。最後までその顔をはっきりと見ることはできなかったが、知的でありながらも面白い考えを持ち、人を惹きつける不思議な魅力を感じる男だった。

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