絵師の酔涙
沙月と交わした言葉のひとつひとつが、短くも濃密だった日々を思い起こさせる。
彼女の笑顔が脳裏をよぎり、思わず胸が温かくなった。今も変わらず笑っていてくれればそれでいい――そう願いながらも、ふと胸の奥が痛む。
そんな感情の波に揺られながら、直行の筆は自然と勢いを増し、白い紙の上を滑るように走った。やはり、自分の感情を正面から受け止めることで、その激情をそのまま絵に映し出す憑依型の絵師なのだ。 直行自身も、春画を描くようになってから、そのことをはっきりと自覚するようになっていた。
そして、そのまま一日が終わった。
二日目。
朝から昨日の下絵をなぞり、細部を整えていく。線の流れを確かめながら、わずかな乱れを修正し、筆の勢いを繊細に調整する。そこに色を入れ始めると、次第に心が昂ぶってきた。
気づけば、澄んだ涙が一筋、頬を伝い落ちていた。それが何の涙なのかは、もう分からない。ただ、確かに何かが込み上げてくる。
酒を少し口に含む。喉を滑る熱が、ぼんやりと身体を温めた。
(……これだ。)
確信した瞬間、直行は筆を執り、勢いよく絵に向かった。
直行は時折、酒に酔いながら筆を走らせることがあった。そのとき生まれる絵は、激情のままに爆発し、荒々しく、ときに破壊的でさえある。
しかし、それが必ずしも美しいものになるとは限らない。理性を手放しすぎて、制御不能なまでに乱れた線が踊ることもあった。
だからこそ、流石に「いつもこのやり方で描こう」とは思えなかった。
だが、この時だけは違った。
酒の酔いが、直行の手を導く。激情をそのまま筆に込め、絵を完成へと近づけていった。
泣きながら筆を走らせる直行の姿を、部屋の扉の影からそっと見つめる者がいた。
(……あいつ、精神的に参ってるんじゃねェか?)
清吉は、立派な前歯をちらりと覗かせながら、心配そうに直行の様子をうかがっている。筆を握る指は微かに震え、涙が頬を伝いながらも、直行はなおも筆を止めようとはしない。その執念ともいえる姿に、清吉の胸に不安が募る。
(沙月って女に振られてから、どうも様子がおかしい。これは放っておけねェな。)
顎を撫でながら思案する清吉。勘が鋭く、一度疑念を抱けば、必ずその核心に迫る男だ。直行が春画を描いていることも、密かに依頼を受けていることも、彼の目に留まれば逃れることはできないだろう。
清吉にしても、彦兵衛にしても、絵を描く者にはどこか共通するものがある。どちらも洞察力が鋭く、感受性が強い。「絵師というのは、ただ技術があるだけでは務まらない。物を見る目と、それをどう表現するかを考える心が必要なのだ。」――それはかつて、葛飾北斎が門下生に向けて言った言葉である。
そして、直行もまたその例に漏れない。どこか鈍臭く、決して器用な性格ではないが、一度何かに心を動かされると、それを深く噛みしめ、絵に落とし込まずにはいられない。そうした気質こそが、彼の絵に魂を宿らせるのかもしれない――師もその側面を鋭く評価し、直行の今後に望みを持っていた。
さて、空が暗くなってきた。夕刻の喧騒は収まり、長屋の隙間を吹き抜ける風が、涼しげに肌を撫でる。直行はふっと息をつき、そっと目を閉じた。
「……できた」
静かに目を開けると、そこには着色を終えた一枚の絵があった。
二十六歳、初めての依頼作をついに描き上げたのだった。