恋のかたち
まん丸な月が、灯りの消えた店先を淡く照らしている。
この日、直行は、風情のある居酒屋の前に立っていた。左彦の手紙によれば、この店で待ち合わせをすることになっている。
戸を開けると、煮込みの湯気と炭火の香ばしい香りがふわりと鼻をくすぐった。障子越しの柔らかな明かりが、静寂の中にわずかな温もりを添えていた。
案内されたのは、店の奥にある個室。低い木戸をくぐると、畳敷きの狭い空間に丸膳がひとつ置かれ、傍らには朱塗りの燗徳利と盃が並んでいた。直行は両手をこすりながら、冷えた指先を温めるように息を吹きかける。
「直行さん、お久しぶりです。手紙を読んで頂きありがとうございます。」
そこには相変わらずの旅人姿をした左彦がいた。今日こそ目が見えるかと期待していたが、やはり三度笠を深く被り、奇妙に動く口髭しか見えない。すでに酒を用意していたが、左彦が口につけている様子はなかった。
「お呼び立て、感謝いたします」
直行は、図星を突かれたあの手紙を思い出しながら、左彦の前に腰を下ろした。
「いやはや、そうでしたか。無理を承知でお願いしてしまいましたね。それでも、私はどうしても貴殿の絵を拝見したいのです。」
返す言葉が見つからず、直行は照れたように頭をかいた。左彦はゆっくりと燗徳利を手に取り、盃に酒を注ぐ。直行にも勧めたが、彼はまだ手を伸ばさず、左彦の言葉を待った。
「……しかし、どうやら描くのにお困りのようですね。」
左彦はくつくつと笑いながら、盃を軽く揺らす。その揺れに映る灯りが、障子越しの月明かりと交わり、ちらちらと光る。直行はため息をつき、盃を手に取った。
「今まで女と男は描いてきましたが……男同士の色事となると、どうにも感情が入りづらい。筆を持てども、心が伴わず、どうにも進まないのです」
直行は盃を傾けた。ほどよく温まった酒が喉を通り、冷えた身体の奥へじんわりと染みていく。しかし、心の芯に残るのは温もりではなく、冷たい違和感だった。
これまで描いてきた春画には、確かに自らの感情があった。女の肌に宿る熱、男の手ににじむ飢え、絡み合う指先。それらはすべて、異性へ向けた感覚の中にあった。だが、同じ性を交わらせようとした途端、その感覚がすっぽりと抜け落ちる。そこに「熱」がない。感情が流れ込む道筋が見えないのだ。
左彦は盃を持ち上げ、直行を静かに見つめた。
「直行さん。恋というものは、男だから、女だからという形に縛られるものではないでしょう。」
ゆるりと笑い、酒を一口含む。
「想うだけで満たされることがある。いや、それこそが恋の本質かもしれませんね」
直行は盃を置いた。静寂が落ちる。ふと見れば、左彦は唇を噛んで切なそうな表情を作っていた。
「その人が笑うだけで嬉しくて、その人が少しでもこちらを見てくれれば、それだけで胸が熱くなる。けれど、決して口に出すことはできなかった。この想いが知られることがあれば、すべてが壊れてしまう……そう分かっていたからです。」
直行は息を呑んだ。
その言葉は、遠く離れた記憶を呼び覚ます。沙月と出会い、他愛ない話を交わし、彼女が微笑むだけで、一日が輝いて見えた。だが、その温もりは永遠にはならない。彼女には決まった縁談があり、直行の想いが入り込む余地などなかったからだ。それでも、どうしようもなく心が求め、声にしてしまった――報われることなどないと知りながら。
その苦しみが、確かに左彦の言葉の中にあった。
(叶わぬ恋の形は、違えど同じ。まさにそういうことか。それならば、己の心に従ってその思いを描くことができるのではないか?)
直行は、心に刺さった棘をなぞるように、紙の上に落とせば、そこに流れる感情が生まれる気がした。そこに筆があるように、指先に力を込めてみる。
男同士の恋が分からぬならば、恋という普遍の痛みを描けばいい。
盃の底に残る酒を飲み干し、直行はそこに紙があるかのように静かに指先を動かした。




