髭と笠と筆
目の前では、男が口髭の隙間から団子を食べている。屋内だというのに三度笠を被ったままの不思議な姿に、直行は茶を啜りながら目を細めた。
(達筆な手紙からしてきちんとした男だと思ったが……これは厄介な依頼人かもしれねェ。)
すでに、直行は個性強めな二人の依頼人を知っている。俗っぽいことを口にする好色な僧と、直行に身を委ねようとした美しき正室。そして今、目の前にいるのは、妙に気さくな旅姿の絵師――男色の春画を描いてほしいと願い出た人物だ。
(なんでこう、俺の元には変わった奴ばかりが集まるんだ?)
直行はふと空を仰ぎたくなったが、代わりに湯気の立つ茶碗を見つめた。左彦はすでに団子を頬張り、満足げに目を細めている。何か言うでもなく、ただ味わい、時折、直行の方をちらりと見る。その視線が妙に含みを持っているようで、直行はなんとも言えぬ居心地の悪さを感じた。
「それで、本題ですが」
空になった皿を机の脇へ寄せ、左彦は湯呑みを手に取ると、静かに息をついた。
「拙者には、長らく想いを寄せる友がおります。だが、それを言葉にすることは叶わぬ。この時代、男が男を想うなど、許されぬこと。ゆえに、せめて筆の中に残したいのです。拙者の心を、形にしてほしい」
直行は無意識に湯呑みを指でなぞった。依頼の内容は知っていたものの、実際に口にされると、なんとも言えない重みを感じる。
「……では、その友の方は、貴殿の想いを知っておるのですか?」
「知るはずもない。いや、知られぬよう、ずっと隠してきた。拙者はただ、この胸の内を、誰にも知られずに吐き出したいのです。絵の中に、そっと閉じ込める形で。」
直行は心の中で大きなため息を洩らした。左彦の目こそ見えないものの、その口調と丸まった背中はなんとも哀愁が漂っていた。
「その想い、どこまで筆に乗せられるか……。」
「貴殿の腕ならば、できるはずだ。いや、貴殿だからこそ頼むのです。あの大名家の心を動かしたという絵を描いた貴殿に!」
左彦は興奮した様子で立ち上がった。冗談めかしていた先ほどとは打って変わり、その様子は真剣そのものだった。
(一体全体、この人はどこでその話を知ったんだ?)
直行は湯呑みを持ち上げ、残った茶を一気に飲み干す。
それから、一足先に入った客が店を出た時まで、二人の会話は続いていた。怪訝な点はいくつも残るものの、左彦の切実な話を聞いている限り易々と断れる依頼ではないだろうと、直行は鷹を括った。
「精一杯、貴殿の想いを描いてみます。ですが、あまり期待しすぎないように。」
「本当ですか! さすがは、直行さん。心より感謝申し上げます!」
奇妙に動く口髭を見つめながら、直行は頭をかいた。一体、どのような構造で、どう描けばいいのか。考えれば考えるほど、左彦が望む作品から遠くなっていく気がした。
そんな直行の苦悩を見透かしたように、左彦は愉快そうに口髭を撫でる。
「案ずることはありません。拙者、貴殿の筆を煩わせぬよう、しっかりと構想を練って参りました。」
そう言うや否や、懐から一枚の巻紙を取り出し、丁寧に広げてみせる。そこには、粗削りながらも、意図がはっきりと伝わる筆致で描かれていた。
直行は思わず目を見開いた。
男が二人、互いに寄り添い、温もりを確かめ合うような姿。淫らさは十分にありつつも、どこか切なく、静かな情熱が漂う画だった。
「これは……」
思わず呟くと、左彦は自信ありげに笑った。
「拙者も絵を嗜む身ゆえ、多少の心得はあります。貴殿の負担を減らせればと思い、ここまで考えてきたのです。」
直行は改めて紙を眺める。線に迷いがない。構図のバランスも、感情の流れを見事に捉えている。
(……この男、只者ではないな。)
依頼人とはいえ、絵師である以上、相手の筆の冴えを見抜くことはできる。この左彦、間違いなく相当な腕を持っている。
(なら、どうして俺に頼んだのだろう?)
同じく、直行の心を読んだように、左彦は口を開く。
「拙者の筆は己のためのもの。どこまでいっても、独りよがりな絵にしかならぬのです。」
直行は眉を寄せた。
「独りよがり……?」
「ええ。技術はあれど、絵には心が宿らぬと痛感するのです。だが、貴殿の絵にはある――人の心を動かす力が。」
左彦は微笑を浮かべながら、真っ直ぐと正面を向いた。直行は口を閉ざしたまま、左彦を見返した。
(人の心を動かす、か……)
左彦の言葉には誇張もお世辞もなかった。むしろ、絵師としての己の力を冷静に理解しているからこそ、他者に託すことを決めたのだろう。しかし、それがかえって直行の肩に重くのしかかったのだった。