左彦という男
1800年(寛政12年)、直行は二十六歳になった。そんな直行を祝うように、外では梢が活気よく鳴いている。薄陽が障子を淡く染め、部屋の中には墨の香りがほのかに漂う。滲んだ墨の線に目を落としながら、直行は筆を取り上げた。
「二十六か……早いもんだな」
江戸の絵師なら、この年頃には独立し、自らの名で作品を発表しているのが普通だ。しかし、直行はいまだに北斎の門下に身を置いていた。技術は十分に習得したはずなのに、自分の絵に「これだ」と言える確信が持てない。
北斎のもとにいれば、まだ学べることがあるはずだ――いや、そう思わなければ、独立できない自分を納得させられなかったのかもしれない。
そんな迷いを振り払うように、直行はますます春画にのめり込んでいった。この日も、仲間たちの陰に身を潜めながら、鳥文斎栄之の春画をこっそりと写していた。
そんな直行の元に、一通の手紙が届いた。普段、直行は手紙でやり取りをすることがなく、怪訝そうに封筒と睨み合った。
(一体誰だろう? もしかして、沙月さんが――?)
しかし、封筒の中の文を読んだ途端、そんな妄想は打ち消され、代わりに直行の度肝を抜いた。
手紙の主は左彦といった。要約すると、左彦は、直行が大名に絵を送ったことを知り、自らも絵を依頼したいと考えたようだ。
直行が天を仰いだのは次の文章からである。
”拙者、男を恋うる者なり。この想い、語ることも許されず、胸中に秘すばかり。されど、これを絵に託し、己が情を昇華させたく存ず。”
つまり、左彦は男色であり、彼への想いを春画という形で描いてほしい、というのだ。人生三度目の依頼にして、初めての男色春画である。それも、なんと左彦は直行より年上の絵師だという。様々な方面からの重圧で、直行は顔を歪ませる。
”まずは一度、直にお会いし、詳しくお話し申し上げたく存じます。”
直行は手紙を持つ手に力を込め、深いため息をついた。書状の文面を何度も目で追うが、読み返すたびに背筋が重くなるような心地がした。
桜の花が散りゆく街道を抜けて、川沿いの茶屋が並ぶ通りに出る。どこかで遠ざかる三味線の音が鳴いている。
川の流れを横目に、直行は歩を進めた。茶屋の軒先には、行き交う人々が足を止め、湯気立つ茶碗を手に憩っていた。団子を頬張る子ども、のんびりと談笑する町人たち――江戸の日常がそこに広がっている。
今日は、左彦と顔をあわせる日だ。
(どんな顔をして現れるのだろうか。どのような言葉を選び、俺に語るのだろうか。)
左彦という名の絵師。書状の文面こそ丁寧であったが、実際に対面してみなければ、その真意は測りかねる。 直行は小さく息をついた。
目の前の茶屋、その軒先に、一人の男が腰を下ろしている。
(あれが左彦か……?)
直行は目を細めて首を亀のように伸ばした。その男は、どう見ても旅人だった。くたびれた薄茶の道中合羽を纏い、ところどころ継ぎが当たっている。大きな三度笠の隙間から覗く髪は乱れ、風に吹かれて無造作に揺れた。笠の影に隠れ、目元はよく見えなかったが、立派な顎鬚を蓄えているのがわかった。
まさに旅の途中のような風貌だったが、かえってそれが作られたものではないかと直行は疑った。というのも、この時代、身元を隠したい者や、武士が裏の世界に関わる際には、旅人の姿を装うことがよくあったからだ。
(まさかなァ)
直行は無意識に息を呑み、一歩、二歩と後ずさった。しかし、男がこちらに気づきふっと微笑んだ途端、直行は思わず「うッ」と嘆声をもらした。慌てて取り繕うように、自分もぎこちなく微笑み返した。
「初めまして、左彦と申します。この度は、手紙を受け取っていただきありがたく存じます。」
やはり、この旅人は左彦だった。それも、随分と丁重な言葉遣いに直行は思わず目を丸くする。いかにも旅人風の身なりの男が愛嬌のある言葉を口にするのが、妙にしっくりこなかった。
「池田直行と申します。こちらこそ、ご依頼感謝致しまする。しかし、なぜ若輩の私に――」
「まぁ、まずは団子でも食べてゆっくり話しましょうや」
左彦はにやりと笑い、口髭を指で軽く撫でると、ひょいと店の暖簾をくぐった。妙に気さくで、肩の力が抜けた態度だ。
戸惑いながらも、直行は仕方なく店の中へと足を踏み入れる。団子の香ばしい匂いが鼻をくすぐるが、それでも心のどこかに警戒の念が消えず、ほんの少しだけ背筋が強張った。