春に染まる
沙月に想いを伝えたあの日から、二週間が経った頃。
直行は風の噂で、沙月がこの街を離れることを知った。嫁いだ先の商家が、新たに大坂へ店を構えることになり、夫婦で移ることになったのだという。当初はここで暮らすはずだったが、商いの事情で急な話になったらしい。
直行は静かにその話を呑み込むと、ふと、あの日の沙月の笑顔を思い出した。
「遠くへ行くのか……」
ぽつりと呟いた言葉は、風に消えていった。
(これにて俺の恋も完全に終わりか……)
ただ、以前のように重い未練は残っていなかった。最後に沙月と会って、言葉を交わして、さらには胸に秘めていた想いを伝えられたことが、直行を前へと進ませた。その上、沙月は自分の春画を見て、「私を想って描いたのなら」と目元を赤く染めた。それはつまり――
「よぉ、直行! 今日は物見に行く日らしいな!」
そこへ、清吉が大きな前歯を光らせながらやってきた。今日も今日とて活気づいている清吉に、直行の幸福感に満ちた妄想はかき消された。清吉を疎ましそうに睨む直行だったが、彼の言葉で今日は門下生たちと物見に行く日であることを思い出した。
その当時、若い絵師たちは大名屋敷や神社仏閣を訪れ、障壁画や天井画を眺めながら筆遣いや構図を学ぶことがあった。名作が残る寺院では、師匠に連れられて写生する者もおり、実物を目にすることは大きな学びとなるのだ。直行を含む門下生たちもその一員であり、この日は支度を整えると、すぐに由緒ある寺院へ向かうことになっていた。
門下に入って間もない者たちは、この恒例行事に特に心を弾ませている様子だった。他方、直行は建造物を写し取るよりも、既存の作品を参考にしつつ一から絵を生み出す方が好きだった。そのため、どうにも気怠そうに荷造りをしている。
それでも、実際に足を運んでみると驚くほど楽しいのが物見である。立派な山門をくぐり、壮麗な障壁画を眺めると気分が踊る。門下生たちと筆致を論じ合う過程で、「ここはどう描いたのか」と指先でなぞる直行の表情は誰よりも輝いていた。
(すっかりはしゃいじまったなァ)
泥が飛び散った服、黒く汚れた手、カラカラになった水筒を見ると、直行は恥ずかしそうに笑う。持参した紙は、微塵の余白も残さずに絵と文字で埋められていた。
その後、皆で銭湯へ行こうという話になり、直行も誘われたが、「ちょっと寄るところがあるんでな」と、それとなく断った。まるで今思いついたばかりの理由をひねり出したかのような口ぶりだった。
(こんなところは誰にも見られるわけにはいかねぇ)
直行が向かった先は大きな書店街だった。夕暮れ時、店の軒先は橙色に染まり、通りを歩く人々の影を長く引いている。棚には合巻や滑稽本、画譜が並び、人々はそれを興味深そうに手に取っては、版木摺りの筆を指でなぞっていた。直行はこの静かな賑わいが心地よく、深く息を吸い込みながら、その空気を存分に味わった。
しかし、直行の足はとある書店の奥の方へと進む。
「あった……!」
直行はお目当ての品を見つけると、小さく拳をつきあげた。直行が密かに尊敬している絵師・鳥文斎栄之の作品が並ぶ中、隠されるように埋まっていたのが彼の春画だった。この店には珍しい版画や多くの春画が売られていると聞きつけ、同郷たちの目を掻い潜りながらやって来たというわけだ。
すぐ隣では、書店の主人がそろばんを弾きながら、にやにやとこちらを見ている。直行は気まずそうに頭を掻きながら、いくつかの春画を手に取り、そそくさと主人のもとへ運んだ。
沙月への未練が薄れた頃、直行の春画への関心はさらに深まっていた。その夜も自室に籠もり、書店で見つけた鳥文斎栄之の官能的な作品を、細部まで丁寧に写していた。
(鳥文斎先生のすごいところは、作品の中に引きずりこむ力があることだ。特にこの絵、俺には絶対に描けねぇ。)
直行の手元には一枚の春画があり、その画面の中央には、絡み合う男女の姿が描かれている。女の頬はわずかに紅を差し、伏し目がちなまなざしに熱が宿っているのが伝わる。衣の柄は細部まで美しく、男の手が襟元をそっと引く仕草には、艶やかさの中にも上品な雰囲気があった。
直行は女の輪郭をなぞるように筆を走らせていると、いつの間にか喉が渇いていることに気づいた。股間がムズムズと疼き、胸の奥からじんわりと熱いものが込み上げてくる。
(なるほど、こいつはたまらねェな……俺も、男たちをこんな気分にさせる絵を描いてみたいもんだ。)
妙に感心しながら筆を置くと、滑らかに手の行き先を変えたのだった。




