春画に映る女たち
それから、八時間ほど眠りについていた直行は、目覚めるとさっきまでの獣のような形相が嘘のように青白い顔をした。
(俺はこんなにも淫靡で背徳的な絵を描いたのか……これは、大名様に――綾乃様に見せていいものなのか?)
眉をひそめ、口元を強く結んで歪ませたその顔は、まるで苦味が舌に広がり続けるのを堪えているかのようだった。
(もし、大名様に疎まれれば、俺の絵師としての命は終わるかもしれぬ……だが——)
直行はふと、空を仰いだ。澄み渡る青空が、逆に己の心の迷いを際立たせ、言い知れぬ焦燥が募る。
しかし、悩めば悩むほど綾乃の眼差しが心に浮かんだ。あの時、恐れも迷いもなく、自らの想いを絵に託すことを求めた姿を思い出す。
拳を強く握りしめると、指先の震えは次第に止まっていった。重く絡みついていた不安が薄れ、ただ己のすべてを見せる覚悟が静かに腹の底に宿る。
やがて直行は筆を再び握ると、心が変わらぬうちに、下絵から着色まで全てをやってのけてしまった。
「先日の非礼、誠に申し訳ございません。どうか御寛恕くださいますよう、伏してお願い申し上げます。」
直行は、床に両手をつき、深々と頭を下げている。大石家の広間には、厳かな静寂が漂う。あたりには、香木のほのかな香りが漂い、障子越しに差し込む柔らかな光が畳を照らしていた。
その視線の先には、美しい女が立っていた。大石綾乃――凛とした佇まいを崩さず、端然と微笑む彼女の頬には、やわらかなえくぼが浮かんでいる。その笑みは、何も咎めるでもなく、何も問うでもない。
反対に、直行は緊張で喉がひどく渇いていた。屋敷の静寂に自らの声がやけに響き、心臓の鼓動すら聞こえそうだった。
綾乃は、静かに直行を見つめたまま、穏やかに言葉を紡ぐ。
「……絵が、できあがったのですね?」
「……はっ」
綾乃は、直行に顔をあげるように言うと、早速絵を欲した。直行はためらいがちに視線を彷徨わせたが、綾乃の包み込むような微笑みに背を押され、覚悟を決めて静かに絵を差し出した。
「まぁ――」
綾乃は食い入るようにその春画を見つめる。そして頬を赤く染めた。
その絵の画面は二分されていた。
片側には、薄紅の小袖を乱しながらも、気高く座る女が描かれている。乱れた黒髪が白い頬をかすめ、わずかに紅潮したその表情は、誰かを焦がれるように求めているようだ。しかし指はそっと胸元を押さえ、まるで「この身も、この心も、誰のものでもない」と言わんばかりに拒むような仕草を見せている。
一方、もう片側には衣を脱ぎ捨て、滴る汗をまといながら快楽に身を委ねる女が描かれていた。艶やかな裸身が月光に照らされ、微かに開いた唇は震え、声なき喘ぎを漏らしている。しかし、男の姿はなく、女の顔よりも大きい男根と、柔らかな乳房を愛撫する力強い腕だけが薄墨で描かれている。
筆致は激しく、線は荒々しくも力強く引かれ、抑えきれない情念と葛藤が滲み出ている。見る者は、その濃密な筆に引きずり込まれ、まるで自らがその場にいるかのような錯覚に酔わされる——そんな異質で力強い一枚だった。
自らの欲望と理性がぶつかり合った故の作品が、一体彼女の目にどのように映るのか。直行の胸には不安が渦巻いていたが、綾乃の頬を伝う涙を目にした瞬間、その動揺は一層強まった。
「も、申し訳ございませ――」
咄嗟に額を床につけようとした時、綾乃の唇から甘く滲むような吐息が漏れた。
「……これこそ、私が求めていたものです。」
「え……」
直行は思わず顔を上げた。綾乃の指先が、春画の紙をなぞる。その動きはゆっくりと、まるで愛おしむかのようであった。紅を差した唇がわずかに震え、胸元で微かに指を握る。
「こんなにも情熱的に描かれることがあるのなら、私は、まだ女として生きているのかもしれませんね」
綾乃の瞳が、春画から直行へと向けられた。その目には、艶やかな光と、微かな悲しみが宿っている。
「もっと、愛されてみたい……」
まるで独り言のような呟きだっただが、それは確かに直行の胸を撃ち抜いた。直行は言葉を失い、ただ綾乃を見つめることしかできなかった。
春画の中の女は、誰かに求められながらも、決して手が届かないように描かれていた。その姿が、今目の前にいる綾乃と重なって見える。愛されることを願いながらも、どうにもならない現実を抱えた女——そんな美しさが、直行の胸に焼き付いた。
そして、その美しさを映し取った自分の筆を、ほんの少しだけ誇ってもいいのかもしれない、と思った。
(綾乃様は、俺の筆をここへ導くために、あのようなことをしたのだろうか。)
ふと、綾乃の裸身が脳裏をよぎる。「きっと、これで貴方の筆も進むはずです」――昨夜の綾乃の囁きが、鮮やかに蘇った。
数日後、直行は再び綾乃の屋敷を訪れた。
綾乃は例の春画を夫に見せたという。
最初は驚きと戸惑いがあったものの、大名は絵を見つめたまま、しばらく沈黙した。やがて、指で女の頬をなぞり、「こんな顔をしていたのか、あの頃は」とぽつりと呟いた。
それから、大名は綾乃のもとを訪れることが増えた。かつてのように二人で庭を散策し、時には並んで月を眺める夜もあった。若い妾たちの元へ通う頻度は減り、綾乃の部屋で過ごす時間が増えたのは確かだった。
しかし、それが夫の心を完全に取り戻したことを意味するのかどうかは分からない。春画は、確かに武器になった。けれど、綾乃が本当に望んでいたもの——「心からの愛」までが戻ったのか、直行には知るすべもなかった。
***
その帰り道、直行は細い路地でふと足を止めた。人混みの向こうに、見覚えのある姿を見つけた。
(沙月……なのか?)
寺での白衣ではなく、淡い藤色の小袖を纏い、髪は品よく結い上げられている。華美ではないが、どこか柔らかな女らしさが滲み出ていた。
沙月も直行の姿に気づき、足を止めた。咄嗟に視線をそらした直行だったが、沙月はためらうことなく小走りで近づいてくる。二人が顔を合わせるのは、一ヵ月ぶりだった。
「……お久しぶりですね、直行さん。」
「お久しぶりです。」
気まずい沈黙が流れる。直行は何も言えず、ただ彼女を見つめた。
「もうすぐ、正式に嫁ぐことになりました。」
「……そ、そうですか。おめでとうございます。」
沙月は静かに微笑んだが、その目はどこか揺れている。直行もまた、貼り付けたような笑顔を作り、その声はひどく掠れていた。
「直行さんの絵、大石綾乃様に見せていただきました。許可なくごめんなさい。でも、どうしても見ずにはいられなかったのです。」
(……何だって? お、俺の春画が、沙月さんに?)
直行は目を見開いた。思わずその場から逃げ出したくなり、背中を冷や汗が伝う。
「あんなにも素敵な絵をお描きになるなんて、驚きました……。でも、それ以上に……胸が苦しくなりました」
沙月の手が、そっと袖の上から自身の胸を押さえる。
「私には……あの絵が、綾乃様だけのものとは思えませんでした」
「なっ――」
「……もし、ほんの少しでも、私を想って描いたのなら……」
直行が見上げると、そこには切なそうに眉を下げる沙月の姿がある。直行は今すぐにでも抱きしめたくなるような衝動に襲われた。
「……もう行かなければ」
しばらくの沈黙が流れると、沙月は静かに踵を返した。直行は手を伸ばして彼女の手首を掴もうとするが、わずかに届かない。
「沙月さん――」
思わず零れた直行の言葉に、沙月は立ち止まる。
「俺、沙月さんのことが……ずっと好きでした」
しばらくの沈黙の後、沙月は小さく頷いた。そして、何も言わずに歩き去った。




