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艶筆  作者: 佐々山
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激情

 大石綾乃の依頼を正式に引き受けた日から、直行は師匠に褒められることが多くなった。絵に向き合う姿勢と、滑らかに進む筆運びが評価された。普段は厳しく無口だが、良い出来にはきちんと称賛を与えてくれる。そんな師匠が、直行はたまらなく好きだった。

 日中は教室で学び、夜は自室にこもって春画を描く。そんな日々が数日続いた後、直行はついに大石の屋敷へ向かった。心の底ではすぐにでも屋敷に向かいたかった直行だが、絵師として余裕のない姿は見せたくない、という若絵師特有の気概がそれを阻んでいた。

 途中、少し道に迷いながらも立派な屋敷に到着した。亭主がいない時間を計らって来たため、まだ昼下がりである。直行は、この状況に得体の知れない罪悪感と高揚を覚えた。しかし、そんな自分に嫌悪を抱き、邪念を断ち切るように強く首を振った。

 すると、あの厳しい顔の門番がこちらを睨んでいるのに気づく。

「え、絵師の池田直行にござりまする。大石綾乃様にお目通り願いたく、参上仕りました。」

 直行の不慣れな言葉を聞くと、門番は顔つきを一切変えず、何も言わずに歩き出した。直行はその後ろ姿をしばらく呆然と見ていたが、我に帰ると慌てて後を追った。

 以前と同じ部屋に通されると、そこにはすでに綾乃がいた。その姿は何とも凛々しく、直行は美人画でも見るように惚れ惚れとした。

「ようこそいらっしゃいました、直行さま。」

 「はっ」と平伏する直行に、綾乃は顔を上げるよう促す。

「それでは早速、絵を描いていただきましょう。私のことはどうぞお気になさらず、心ゆくまで筆をお運びください。」

 綾乃は膝を床につけたまま一、二歩ほど後ろに下がった。

 ――とは言われても、直行は緊張で手が震えて道具を準備するのも精一杯だった。どのような構造の絵を描くのかはある程度決めていたが、一向に筆が進まない。綾乃はただ、当てもなく動き回る直行の手元を興味深そうに見つめている。その状況が、さらに直行の鼓動を早めて額に汗を滲ませた。

「やはり、直に肌をお見せした方が描きやすいでしょうか」

「……へ?」

 直行は思わず間抜けな顔を上げた。

 すると、綾乃は口元に微笑を浮かべて、艶やかな絹の衣をゆっくりと脱ぎ始めた。赤く染まる直行の頬に比例して、綾乃の白い肌が露わになる。鎖骨から胸元にかけてのなだらかな曲線が呼吸に合わせて微かに上下し、腰にかかる黒髪がさらに白さを際立たせる。

「い、いけませぬ」

 直行は、その眩さに目を伏せようとしながらも、どうしても視線を外せなかった。

「これはあくまで、良い絵を描いてもらうためです。」

 綾乃は一歩、また一歩と近づき、直行の前で立ち止まる。

「……触れてみませんか?」

 掠れた声が耳朶をくすぐり、直行は息を詰めた。指先が震えながらも、まるで導かれるように彼女の肩へと伸びていく。華奢な鎖骨から、豊かな膨らみへと指を移すと、綾乃の肩が小さく痙攣した。驚いて綾乃の顔に目を移すと、そこにはあまりにも艶やかな面差しがあった。

 直行も至って盛んな男である。魅惑的な美しい女を前にして、押し倒さないわけにはいかなかった。

「まぁ……」

 直行の下で仰向けになる綾乃は、そっと唇を噛み、ゆらりと直行を見上げた。

 その刹那、脳裏に鮮明に浮かんだのは、沙月の姿だった。

 (俺って野郎は、何をしているんだ)

「大変失礼いたしました。」

 直行は額の汗を拭って、慌てて起き上がると咄嗟に平伏した。己の理性が瞬時に働いたことが唯一の救いだと直行は感じた。しばらくして、「顔をあげてください」という綾乃の声が響き、直行の青白い顔が現れた。

「……抱いて良かったのですよ。触れなければ、感じなければ、分からぬものだってあるはずです。」

 綾乃は起き上がり、肩に掛けた薄衣を整えながら、じっと直行を見つめていた。直行は綾乃の言葉に動揺しながらも、震える声で応えた。

「綾乃様が何を思い、何を求めているのか……それを感じなければ、この絵に魂は宿りませぬ。」

 綾乃は一瞬驚いた表情を見せた後、少し寂しげに微笑んだ。

「やはり、貴方はそういう方なのですね。」

 綾乃はそっと視線を逸らし、障子の外に広がる夜の闇を見つめた。

「……今日はお開きにしましょう。きっと、これで貴方の筆も進むはずです。」

「え……?」

 直行は唖然として顔を上げた。そこには、既に衣をきちんと着こなし、凛とした美しさを湛えた綾乃の姿があった。



 茜色に染まる空が、静かに一日の終わりを告げる頃――直行は帰路を難しそうな顔をして歩いていた。

 (しくじった……もし綾乃様、大名様の逆鱗に触れれば、ただでは済むまい。)

 冷や汗を拭う。しかし、内心では理性で抑え込んでいた自身の「欲望」——沙月への想い、そして今目の前にいた綾乃への一瞬のときめき——が渦巻き、胸を締めつけていた。誰でもいいから女を抱きたい衝動に駆られたが、ギリギリな状態で働く理性がそれを止める。

 その夜、直行は筆を取るも、何度も紙を破ってしまった。細かに足をゆすり、度々指を噛む直行の周りには、苛立ちと欲求が絡みつき、重く淀んだ空気となって漂っていた。

 獣のような感情と人間らしい節制の心を抱えながら、絵と向き合う。次第に、その感情をすべて筆先に乗せ始めることができてきた。二つの感情が火花のようにぶつかり合い、一枚の春画に昇華されていく感覚を直行は覚えた。綾乃の裸体を浮かべると、沙月の愛らしい笑顔が過ぎり、その度に直行の筆は進んだ。もはや誰のためでもなく、煮えたぎる感情に突き動かされるまま描き続けていた。

「できた……」

 気づけば、東の空が白み始め、カラスの声が響いている。直行は一睡もせずに下絵を完成させた。朝日に向けて紙をかざすと、墨が飛び散った顔で力無く笑った。そして、ヘナヘナと床に座り込むと、そのまま深い眠りについた。

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