大石綾乃
その晩、直行は大きないびきをかいて眠った。沙月の顔も玄光の言葉も頭を過らぬほど、先輩と飲んだ酒は直行の心に染み渡った。
翌朝は重い体をなんとか起こして、誰よりも早く教室に入った。ぼんやりとした頭で、じっくりと筆先を洗い、さらには教室の掃除をした。
空が徐々に青みを増してきた頃、清吉は眠そうに目を擦りながら教室に入ってきた。
「昨日はご苦労さん。まさかお前が残るとは思わなかったぜ。」
直行を見つけるなりカラカラと笑う清吉を見て、昨日の記憶が嫌というほど蘇った。酔いと眠気がバッチリとさめて、その後に残ったのは後悔と焦りだった。
(……しくじったなぁ、まったくもって情けねぇ話だ。)
頭を抱える直行の肩を、清吉はポンポンと叩く。
「たまにはしくじるのも粋ってもんよ。何でもかんでもうまくいっちゃあ、そりゃあ気味が悪いし、面白くもねぇ。」
大きな前歯を剥き出しにして笑う清吉を、直行は腕の隙間から覗いた。いつもなら能天気なこの男に苦笑するところだが、今日だけは違った。
(みんな、失敗を恐れてねぇんだな。なんか、かっこいいや。)
その時、葛飾が大きな咳払いをして教室の扉を開けた。
「ほら、さっさと席につけ。」
響く声に、門下生たちは慌ただしく筆を構える。またな、と手を振る朋輩の背中がいつもより大きく見えて、直行はふっと息を吐いて背筋を伸ばした。
その日、直行の筆はいつになく冴えていた。葛飾は鋭い眼で絵を見つめ、眉をくいっと上げてゆっくり頷く。その無言の仕草が、何よりの評価だった。
それから数十日が経った頃――直行は、巨大な屋敷の門前で立ちすくんでいた。厳めしい門番が二人、じろりとこちらを見ている。その重圧に、思わず足がすくみ、直行は苦虫を噛み締めた顔を作る。
(……本当にここでいいのか?)
今日、直行は筑前国・大石家の屋敷に来ている。七万石の譜代大名である大石家は、格式こそ高いものの、近年は藩主の放蕩が噂され、家中の規律も乱れがちだという。広々とした屋敷の門構えは立派だが、どこか静まり返っており、かえって重苦しい空気が漂っていた。
(俺のような筆一本で食うのに四苦八苦している男が入っていい場所とは思えねぇ。)
時間が経つにつれ、沼に引き摺り込まれるように足が重くなった。
だが、迷ったところで仕方がない。門番の顔がさらに険しくなるのを見て、直行はぐっと歯を食いしばり、一歩前へ出た。
「葛飾北斎門下の絵師、池田直行にございます。大石綾乃様より絵の御用命を賜り、参上いたしました。」
門番はちらりと彼を見やると、しばし無言だった。直行の心臓が不規則に跳ね、ははっと声にならない苦笑いをあげた。
「……お通ししよう。」
やがて、門が静かに開いた。直行は胸を撫で下ろしながら、己の筆がどこへ導かれるのかを確かめるように、ゆっくりと中へ足を踏み入れた。
通された部屋は華やかな装飾で彩られていたが、どこか物寂しさが漂っていた。直行は爪をいじり、足先をもぞもぞと動かしながら、落ち着かない様子であたりを見回す。これまで味わったことのない緊張と不安が、じわじわと胸を締めつけていた。
そんな空間に、襖が開く上品な音が響いた。つむじを天井へと伸ばした直行は、襖の奥からゆっくりと現れる女を見てハッと息を呑んだ。
「はじめまして、大石綾乃です。」
直行はこれほどまでに美しい女を知らなかった。
艶やかな黒髪はきちんと結い上げられ、控えめな簪とよく合っている。白く滑らかな肌は雪のように透き通り、伏し目がちな瞳と、哀しげな微笑みが直行の胸をつく。沙月は小動物のような愛くるしさを持っているが、目の前の女は「正室」という言葉がしっくりくる、儚げで気高い美しさをまとっていた。
「池田直行と申します。僭越ながら、このたびお目にかかる機会を賜り、恐悦至極に存じます。」
直行は己の名前をこれほど上擦らせたことはなかった。恥ずかしさから、ただただ額を床につけることで精一杯だった。
「お話は伺っております。貴方が若きながらも、真摯に筆を執る方だと。」
「め、滅相もございませぬ。拙き筆ではございますが、誠心誠意描かせていただきます。」
「それは……随分と頼もしいです。」
そこから、長い沈黙が続いた。綾乃は涼しげな目で庭の草木を眺めているだけで、直行に目もくれようとはしない。口元には穏やかな笑みを浮かべ、警戒している様子はないものの、直行はどこか馬が合わなさそうに感じた。
(どうせなら玄光さんも連れてくるべきだった。これから、何を話して何を描いていけばいいのやら。そもそも、綾乃様は俺の絵を本当に望んでいるのだろうか。)
直行は複雑な考えを巡らせると、つい眉間に皺が寄ってしまう。その時、静けさを破るように、綾乃がふっと笑みを零した。
「そんなに難しい顔をなさらなくてもいいのですよ、直行様。」
直行ははっとして顔を上げ、照れ臭そうに頭を掻いた。綾乃は微笑みを崩さぬまま視線を床に落とす。
「私も、こんな風に絵師様と向き合うのは初めてです。ですから、お互い様……ですね。」
直行は思わず目を瞬かせた。大名家の正室が、こんなにも素直な物言いをするとは思わなかったのだ。
「……あの、ひとつお聞きしてもよろしいでしょうか」
「はい?」
「なぜ私に、このような絵のご依頼を? 私はまだ若輩で、はるかに腕の立つ絵師は数多くおられますのに。」
その問いに、綾乃は少しだけ目を細めた。
「私の願いを叶えてくれるのは、格式張った絵師ではなく、心で筆を執る方だと思ったのです。玄光様が、貴方には人の心を動かす絵を描ける才能がある、と仰っていました。」
直行は「玄光め……」と心の中で呟きつつ、背筋を伸ばした。
「私は、もう一度……夫に私を見てほしいのです。そのために、私という女を――春画で見せつけたいのです。」
その瞳は、淡々としながらもどこか張り詰めていた。
(……なるほど。これは、“勝負”に使う絵ってことか。)
直行は唾を飲み込んだ。 ただの春画じゃない。誰かを取り戻すための、武器になる絵だ。
(俺に描けるのか……? それも、この美しい奥方を筆の先に映し取るなんて。)
そんな苦悩を見透かしたように、綾乃は言葉を付け加えるように言う。
「貴方が描くというのならば私は何でもいたします。貴方が私の裸を欲するのならば、裸を見せましょう。貴方が肉感を欲するのならば、私は体を許します。」
直行はポカンと口を開けると、綾乃の言葉を脳内で反芻して耳を赤く染めた。対して、綾乃は恥じらいも、揶揄うような笑みも浮かべず、真剣な眼差しで直行を見つめている。
「何を言っておられるのですか! ? 綾乃様、お気を確かに!」
そこへ飛んできたのが、迫力のある形相をした綾乃の女中だった。
「私は真面目に言っております。この身を捧げることで、もう一度あの人の心が戻るのならば、私に迷いはございません。」
「ですが」と言いかけた女中の顔を綾乃が冷酷な目で睨むと、女中は慌てて平伏し、そそくさと部屋を後にした。直行は、綾乃を物静かでありながらも、芯の強い女性だと感じた。
「失礼いたしました。今言った通り、私は本気です。」
「綾乃様のお力添え、大変感謝いたします。この身に余る光栄、必ずや筆にてお応えいたしまする。」
直行は再び平伏する。 純粋な気持ちだけとは言い切れないが、何よりこの女性のために最高の絵を描きたいという情熱が、直行の胸に熱く灯った。
「いつでも屋敷にいらしてください。もちろん、この場で絵を描いても構いません。」
上品に浮かぶ笑みを見て、直行はその美しさと寛大な綾乃への驚きで鼓動が早まった。「滅相もございませぬ」そう口にした直行だったが、内心ではこの屋敷で筆を取ってみたいと好奇心に駆られていた。




