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春よこい

初めての作品です!

よろしくお願いします。

 1799年(寛政11年)江戸の街には、さまざまな絵があふれていた。

 美しきもの、哀しきもの、そして人を笑わせるもの。

 名だたる絵師たちの筆が生み出す世界に、人々は魅了され、時に自らを重ねることもあった。

 そんな時代、一人の若き絵師が己の筆の行く先を模索していた。

 池田直行(いけだなおゆき)、二十五歳。

 商家の長男として生まれた直行は、家業を継ぐのが当然の道とされていた。しかし、帳簿をつけるよりも筆を持つことに心を惹かれ、幼い頃から絵に夢中になっていた。

 やがて、自分に商才がないことを悟ると、その想いはますます強くなり、絵師の道を志すようになる。意を決して家を飛び出し、何度も門前払いを受けながらも、ついに葛飾北斎の門下に加わることができた。本格的に画法を学ぶうちに、直行の中に眠っていた才能が少しずつ開花していった。やがて彼は、「絵で生きる」と固く決意するのだった。

 だが――。

「直行、春が来たぞ!」

 突然、肩を叩かれ、直行は思わず筆を止めた。

 頬をつやつやと光らせ、にやにやと笑うのは、朋輩の清吉(せいきち)である。

「清吉、春はまだ遠いな」

 雪鼎は窓の向こうに膨らみ始めた椿の蕾を眺めながらぼそりとつぶやく。

 しかし清吉は「違え違え!」と笑いながら棚へ向かい、一枚の和紙を取り出すと、勢いよく雪鼎の目の前に広げた。なめらかな曲線、絡み合う指先、艶やかに乱れる黒髪。それは、どう見ても春画だった。

「春って――」

「そう、描けたんだよ。俺にも春画が!」

 「春画」――男女の交わりを描いた艶絵のことで、庶民から武士まで幅広い階級に親しまれていた。特にこの時代、錦絵の技術が発展し、多色刷りの春画が本格的に広まり始めたことで、その文化はさらに栄えていった。

(この清吉が春画を? 俺なんて、描こうと思ったことすらねぇのに……)

 写生や風景画に没頭していたはずの清吉が、一足先に新たな世界へ踏み出した。その変化に驚き、直行は焦燥を覚える。しかし、まじまじと清吉の春画を見つめているうちに、不思議と胸の内に春の香りが漂うような感覚を覚えた。

「何度も描きなおした末の自信作だ。鳥文斎先生の作風を真似てみたのさ」

「鳥文斎……鳥文斎栄之先生? 春画も手掛けていたのか。」

 直行は首をかしげる。春画にはあまり精通していなかった。

「しらないのかよ? 鳥文斎先生の作品はすげぇぞ」

 鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし)――武家の出身ながら、浮世絵界で高い人気を誇る絵師だ。美人画を得意とし、錦絵から肉筆画まで幅広い作品を手がけている。

 唇の端をかすかに持ち上げた清吉。好色な彼とは反対に、直行は驚くほど淡泊だった。鳥文斎栄之どころか、春画に触れた経験はほぼない。

「お前も、そろそろ春画を覚えた方がいいぞ。絵師として、男として恥をかかないためにな」

「は、はあ……」

 直行は元結で軽く束ねられた頭をおせっかいだと言わんばかりに苦笑しながら掻く。しかし、内心は春画という存在に興味をそそられていた。清吉の絵が、鳥文斎栄之の存在が、直行の心を揺るがす。

 さすがは、一途にのめり込む探究者。その日から、直行は足繫く鳥文斎栄之の春画を求めた。ついには、ある門下生から作品を借りることに成功した。清吉を頼ることはどうしても恥ずかしかったようだ。

「これが——」

 その夜、直行は自室に籠って苦労して手に入れた春画を鑑賞していた。

 見れば見るほど、直行は生唾を飲んだ。柔らかな灯りの下で、男女がしっかりと絡み合う。男はそっと女の肩に口を寄せ、何かを囁く。女は唇に指を添えながら、恥じらうように目を伏せる。その間にも衣の合わせは乱れ、豊かな肌が花模様の隙間から覗いていた。

 直行は最初、あまりのエロティシズムに目が眩んだ。しかし、呼吸を整えてじっくりと鑑賞してみると、今度はあまりの美しさに心を奪われた。情の交わりを描きながらも、そこには俗を超えた雅が息づいていた。直行は春画がただの淫らな戯れではないことに気付くと、その夜は消えぬ余韻に苛まれ、なかなか寝付けなかった。

 翌朝、直行は顔も洗わぬまま、紙と筆を前にじっと考え込んでいた。普段なら、一度筆を執れば感情のままに勢いよく描き上げるのが直行のやり方だった。しかし、この日は違った。ほぼ一日中、筆を動かさず思案を重ねる様子に、訪ねてきた友人たちは不気味さすら覚えた。

 そして日が沈む頃、直行は机に突っ伏し、低く呻いた。

「無理だ」

 直行は、とうとう筆を置いた。一日中、春画と向き合った。何かしらの絵は描けるだろうという自信はあった。だが、筆は一向に進まない。それどころか、女の姿がまるで浮かんでこなかった。頬の紅潮も、喉の震えも、背を反らす瞬間に生まれる影さえも——何一つ感じ取れなかった。

(なぜだ……なぜ清吉には描けて、俺には描けない?)

 考え続けた末、直行はある答えに行き着いた。

(女遊びの経験がないからではないか?)

 清吉はとにかく色事が好きだった。遊郭へ通う姿を何度も見ているし、直行自身も何度か誘われたことがある。だが、興味が湧かなかった。女に金を使うぐらいなら、新しい画材や画本を買った方がよほど魅力的だと感じていた。その選択を後悔したことはなかったが、今になって初めて思う。

(……もしかして、俺には“春”が足りないのか?)

 握りしめた筆が、じんわりと汗を吸った。そこが清吉との差だと確信した直行は、遊郭に行くことを思い立った。艶やかな女体と、それを狂わす己を目に焼き付けるのだと足を踏み出した。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました( ◠‿◠ )

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