63 歪んだ望み
シルクベイン王は、ゆっくりと顔を覆い、天を仰いだ。
「だが、もうよい。騙されていたことなど、水に流そう」
ゆっくりと、歪んだ笑みを浮かべる。
「失われたと思っていた力が、まだあるのなら――
これから増やせばよいのだ」
そう言うと、ユリアの腕を乱暴に掴み立たせ、さらに奥の部屋へと歩かせた。
「お、お父様……どういうことですか? 何を、なさるおつもりですか……?」
ユリアの胸に、言い知れぬ嫌な予感が広がった。
そして、かつてヘレンに言われた言葉が脳裏をよぎる。
――本当に……お父様は……私に……。
必死に抵抗しようとした、その時だった。
バンッ!
大きな音と共に扉が開き、男の叫ぶような声が響いた。
「おやめ下さい!!」
室内にいた全員が、一斉に扉の方へと視線を向ける。
そこに立っていたのは――
かつてユーハイム国でユリアの護衛を務めていた、セルビアだった。
アルジール国へ嫁ぐ日にも同行し、最後までユリアを案じてくれていた人物。
「セ……セルビア……?」
久々に見るその姿に、ユリアは目を疑った。
「ユリア様! ご無事ですか!」
セルビアは駆け寄り、すぐにその場で膝をつく。
「国王陛下! どうか……どうか、おやめ下さい!」
深く頭を下げ、懇願するように声を絞り出した。
「……お前は、自分が誰に楯突いているのか分かっているのか?」
シルクベイン王は、冷ややかな目でセルビアを睨みつけた。
「無礼であることは承知しております……。ですが……これは、あまりにも間違っております」
セルビアは顔を上げ、悲痛な表情で訴えた。
「これは私の娘だ。どう扱おうが、貴様に口出しされる筋合いはない」
シルクベイン王は、控えていた護衛達に目配せした。
次の瞬間、護衛達は一斉に剣を抜き、セルビアの前へ立ちはだかった。
「私に逆らったことを……後悔するがよい」
護衛達が、じりじりと距離を詰める。
「セ、セルビア……! 無茶よ! やめて! 私のことは――」
「良いはずがありません!!」
セルビアは、叫ぶように言った。
「私は……あなたが傷つく姿を、もう二度と見たくない!」
その言葉と同時に、セルビアは護衛達へ斬りかかった。
剣と剣がぶつかり合い、鋭い音が室内に響く。
多勢に無勢でありながら、一時はセルビアが押しているように見えた。
だが、時間が経つにつれ体力は確実に奪われていく。
足が一瞬、ふらついて、背を向けた、その刹那――
ザシュッ
背中を大きく斬られ、セルビアは床に膝をついた。
「やめて――!!」
ユリアは抑えられていた腕を振りほどき、セルビアの元へ走り出した。
だが――
ユリアの手が届く、その直前。
ドスッ
護衛の剣が、セルビアの胸を深く貫いた。
「……っ」
崩れ落ちそうになる体を、ユリアは必死に抱き止めた。
「セルビア! セルビア!! しっかりして! お願い……!」
何度呼びかけても、セルビアは答えない。
それでも、まだかすかな息があることに気付き、セルビアの唇が、かすかにユリアの名を形作った。
ユリアは震える手を傷口へとかざした。
――治さなきゃ。まだ、間に合う。
「やめろ!」
周囲の護衛達が、すぐさまユリアを引き剥がした。
「離して!! お願い……まだ助かるの! 私が治せば――!」
必死にもがくが、力では到底敵わない。
ユリアはそのまま、ズルズルと奥の部屋へ引きずられていった。
ベッドへ乱暴に投げ出され、両腕を強く拘束される。
それでもユリアは、自由な足をばたつかせ、必死に抵抗した。
――その時。
強い衝撃が頬を打ち、視界が横に流れた。
何が起きたのか分からない。
だが次の瞬間、焼けるような痛みが走り、
――打たれたのだと、はっきり理解した。
「お前達は、もう下がってよい。明日の朝まで、この部屋に近付くな」
シルクベイン王の命令に、護衛達は無言で頭を下げ、部屋を後にした。
扉が閉まり、重い音だけが室内に残る。
――静寂。
部屋には、ユリアとシルクベイン王だけが取り残された。
体が動かないのではない。
動かそうとしても、言うことをきかなかった。
頬の痛みだけが、やけに鮮明だった。
これから父にされることを理解した瞬間、指先から力が抜け落ちる。
頬を伝って、涙が静かに落ちた。
――もう……駄目だわ……。
陛下……。
あの人がここにいるはずがないと、分かっているのに。
ユリアは、ゆっくりと目を閉じた。
「……何をしている」
地を這うような、低く冷たい声が部屋に響いた。
ユリアは、はっとして声のした方へ視線を向ける。
そこには――
本来、ここにいるはずのない人物が立っていた。
「……へ……陛下……?」
目の前に立つエルフナルドの姿が信じられず、ユリアは何度も瞬きをした。
「ど、どうして……貴様がここに……!?」
シルクベイン王もまた、目を見開き声を荒げた。
「どうして、だと?」
エルフナルドは一歩前に出て、淡々と言い放つ。
「勝手に連れ去ったのは貴様だろう。私は、自分の妻を取り戻しに来ただけだ」
そして、冷たい視線をシルクベイン王に向けた。
「それに――手紙に書いたはずだ。ユーハイムには帰れないと。それを無視して強引に連れ去るとは……また我が国に戦争でも仕掛けるつもりか?」
「ユリアは私の娘だ! 娘に触れて、何が悪い!」
シルクベイン王が怒鳴り声を上げる。
「……それは、もう私の妻だ」
エルフナルドは静かに言い、ゆっくりと剣を抜いた。
「お前が触れてよい存在ではない」
剣先が、真っ直ぐシルクベイン王を捉える。
「な……何をするつもりだ……」
動揺する王を前に、エルフナルドは剣を構えたまま、ユリアへと視線を移した。
「……お前が、選べ」
「……え……?」
意味が分からず、ユリアは小さく首を傾げる。
「私の元へ戻るか……それとも、この国に残るか」
その真剣な眼差しに、ユリアは喉を鳴らし、唾を飲み込んだ。
「望む方を選べ。だが、もし私の元へ戻るなら……」
一瞬の間。
「今度こそ、二度とここへは戻れない」
低く、逃げ場のない声だった。
「……意味は、分かるな。ユリア」
名を呼ばれ、ユリアの肩がびくりと震えた。
溢れ出しそうになる涙を、必死で堪える。
「な、何を勝手なことを――!」
シルクベイン王の声を遮るように、ユリアは小さく、しかしはっきりと口を開いた。
「……陛下の元に戻りたいです。どうか……お側に……」
ユリアの声は震えていた。
堪えていた涙が、ついに堰を切ったように溢れ落ちた。
エルフナルドは、しばらく黙ったままユリアを見つめていたが――
やがて、ゆっくりと目を閉じる。
「……分かった」
その一言は、剣よりも重く、部屋に落ちた。




