57 踏み出してしまった一歩
「ユリア様、もうすぐ王宮です」
クリックの控えめな声が、ユリアの耳に届いた。
「ええ……ありがとうございます」
王宮に到着し馬車を降りると、門前に、アリシアと――エルフナルドの姿があった。
その光景に、ユリアの呼吸が一瞬止まった。
――もしかして、もう知られているの……?
「陛下……?」
エルフナルドは何も言わず、ただ真っ直ぐにユリアを見つめていた。
その視線の意味を測りかねていると、横にいたクリックが一歩前に出て口を開いた。
「国王陛下。この度は、緊急の事態とはいえ、市場での火事の治療に王妃様のお力をお借りしたこと、深くお詫び申し上げます」
クリックは深々と頭を下げた。
ユリアは驚いてクリックを見た。
「……頭を上げろ」
エルフナルドは静かに言い、ちらりとユリアへ視線を向けた。
「どうせ、こいつが一緒に行くと言って聞かなかったのだろう」
「……あの……申し訳ありません」
その視線に耐えきれず、ユリアも小さく頭を下げた。
「……問題はない。行くぞ」
それだけ言うと、エルフナルドは背を向け、足早に歩き出した。
「ユリア様、今日は本当にお疲れ様でした。どうか、ゆっくりお休みください」
クリックは小さく微笑み、屋内へ入るよう促した。
ユリアは会釈を返し、エルフナルドの後を追った。
エルフナルドは、後ろを歩くユリアの歩調を気遣ってか、いつもよりわずかに歩調を緩めていた。
ユリアはその背を見つめながら、小さく息を吐いた。
やがて自室を通り過ぎ、ユリアの部屋の前で足を止め、振り返る。
「慣れないことで疲れただろう。今日はゆっくり休め」
「……ありがとうございます」
短いやり取りの後、エルフナルドは自室へ戻っていった。
ユリアも部屋に入り、長椅子に腰を下ろす。
しばらくしてノックの音がし、アリシアが顔を覗かせた。
「ユリア様。お食事とお風呂のご準備が整っておりますが、いかがなさいますか?」
「ありがとう、アリシア。せっかくだけど、お風呂だけにするわ。少し疲れてしまって」
そう答えると、アリシアは心配そうにユリアの顔を覗き込んだ。
「……お顔の色が良くありません。具合は悪くないですか?」
「大丈夫よ。少し疲れただけ。眠れば良くなるわ」
アリシアはなお言いたげだったが、「かしこまりました」とだけ言って部屋を後にした。
ユリアは湯を使うと、そのままベッドに横になり、すぐに眠りに落ちた。
その夜、扉の前で足を止める気配が、何度かあった。
けれどユリアは、それに気付くことなく眠り続けていた。
翌朝、ユリアは早くから薬事室を訪れ、クリックの到着を待っていた。
ほどなく扉が開き、クリックが入ってきた。
「おはようございます、ユリア様。体調はいかがですか?」
「昨日はよく眠れましたから。もうすっかり平気です」
ユリアはそう言って、冗談めかして腕に力を入れてみせた。
「それは良かった」
微笑むクリックをしばらく見つめた後、ユリアは小さく息を吐いた。
「あの……クリック様。昨日のことなのですが……」
言葉が途切れる。
クリックは急かすことなく、静かにユリアを見守っていた。
「……私には、人の傷を癒す力があります。ただ、事情があって、もう力は使わないと決めていました。五年ほど、一度も使わずに過ごしてきました」
ユリアは視線を落とし、俯いたまま続ける。
「……そうでしたか。でも、そんな事情があったのに、昨日はあの子を助けてくださいました。私では救えなかった命です。感謝しております。ですから、そんな顔なさらないでください。私は……ユリア様を誇りに思います」
ユリアは言葉を失った。
その言葉を受け止める資格が、自分にはない気がした。
「いいえ……私の力は……こんな力は、本当は、ない方がいいのです……。誇らしいだなんて……」
ユリアは頭を抱えるようにし、首を横に振った。
「私が力を持っていることは、今では誰も知りません。だから、使わずに生きていけば問題はないと思っていました……。でも……アリシアやクリック様が襲われて……もしかしたら、誰かが私の力を探っているのではと……。もし、この力が公になれば……」
そこまで言ったところで、ユリアの体は小さく震え出し、しゃがみ込むようにして自分を抱きしめた。
「ユリア様……」
クリックはすぐに傍に寄り、視線を合わせる。
「お願いします……どうか、私の力のことは伏せていてください……。これ以上、誰も巻き込みたくないのです……」
ユリアは縋るようにクリックの手を握りしめた。
「大丈夫ですよ、ユリア様。落ち着いてください」
クリックはそう言って、震える背を静かに撫でた。
「……昨日の帰り道で、ユリア様のご様子がおかしいことには気付いておりました。何か事情がおありなのだろうとも。あの場にいた者には、ユリア様のお話を伺うまでは伏せておくよう、私からお願いしております。どうか、ご安心ください」
ユリアはゆっくりと顔を上げ、クリックを見つめた。
「……ありがとうございます。申し訳ありません……」
震えていた体が、ほんの少しだけ落ち着いた。
それでも、胸の奥に沈んだものまでは、拭いきれなかった。
安堵と同時に、守ると決めた約束を、自分の手で破った――
その感覚だけが、胸の奥に静かに残っていた。




