56 封じたはずの力
男の子の浅い呼吸音が聞こえた。
かろうじて生きている証に、ユリアは息を詰める。
――間に合う。
そう思った瞬間、胸の奥で、ずっと封じてきたものが小さく軋んだ。
ユリアは目を閉じたまま、自分の掌を男の子へと向けた。
久々に力を使うと思うと、緊張で指先がわずかに震える。
兄に力の使用を禁じられてから、ユリアはその力を封じて生きてきた。
一度も使わないと決めていた。
禁じられただけでなく、自分でもそうすべきだと信じていたからだ。
それでも――力を使うことに迷いはなかった。
どうしても、この男の子を見捨てることだけはできなかった。
ユリアは深く息を吸い、目を閉じたまま掌に力を込めた。
祈るように、縋るように。
すると男の子の全身を覆っていた火傷が、みるみるうちに塞がっていった。
クリックは、跡形もなく消えた火傷を、言葉を失ったまま見つめていた。
ユリアがゆっくりと目を開けると、傷は完全に消えていた。
あまりにも綺麗に、何もなかったかのように。
――……?
一瞬、違和感がよぎる。
だが、それよりも――。
「お姉ちゃん?」
男の子の目が、ゆっくりと開かれた。
その声を聞いた瞬間、ユリアの胸に張りつめていたものが一気にほどけ、思わず男の子を抱きしめた。
「僕……お父さんのブレスレットを取りに行ってたら逃げ遅れちゃって……。お姉ちゃんが助けてくれたんだね」
男の子は、自分のポケットからすすだらけになったブレスレットを取り出し、ぎゅっと握りしめたままユリアに見せた。
「あなたのお父さんも無事だから、心配いらないわ。すぐ連れてくるわね」
ユリアはそう言って立ち上がろうとした。
だが、その瞬間、視界がふっと揺らいだ。
「……っ」
グラリと身体が傾き、咄嗟にクリックが支える。
「ユリア様?」
「……大丈夫です。少し、ふらついただけで……」
一瞬のことだった。
だが胸の奥に、わずかな違和感が残った。
「ユリア様は、ここに座っていてください。私がお父様をお連れしますから」
「……ありがとうございます」
そう言うと、クリックは小走りで建物の外へと向かった。
「お姉ちゃん……大丈夫?」
男の子が、不安そうにユリアの顔を覗き込む。
「ええ、大丈夫よ。ちょっとふらついただけだから」
ユリアは安心させるように、いつも通りの微笑みを浮かべた。
ほどなくして、男の子の無事を知った父親が駆け寄ってきた。
強く抱きしめ、何度もその背を撫でる。
「良かった……! 本当に、無事だったんだな……! あの……ありがとうございます。本当に、ありがとうございます!」
男の子の父親は、感情が抑えきれない様子で、何度も深く頭を下げた。
「どうか頭を上げてください。こちらの男の人が、火の中から助け出してくださったのです」
ユリアがそう告げると、父親は救出した男の方へ向き直り、同じように何度も礼を述べた。
その光景を見ながら、ユリアの胸の奥がじんわりと熱くなった。
火事の負傷者の治療を終えた後、ユリアとクリックは王宮へ戻る馬車に乗っていた。
ユリアは一人で帰れると告げたが、クリックは首を横に振り、王宮まで付き添うと言って譲らなかった。
馬車の中は、車輪の音だけが静かに響き、二人とも言葉を発しなかった。
男の子を助けるために力を使ったあの瞬間、周囲の視線や、その後のことなど、ユリアの頭からは完全に抜け落ちていた。
クリックは、その一部始終をすぐ側で見ていた。
そして――医師や、他にも何人かがあの光景を見ている。
あの変化を、不審に思わないはずがない。
――この力のことを、クリック様にどう伝えればいいのか……。
そして――。
あの火傷が、全て跡形もなく治った。
信じられなかった。
今まで一度も、痣を残さずに治せたことなどなかった。
かつて、あの洞窟でエルフナルドを治した時でさえ……。
ユリアはそっと目を閉じた。
馬車は何事もなかったかのように、王宮へ向かって走り続けていた。




