54 癒えぬ傷
目を覚ましたエルフナルドは、自分の体が汗でびっしょり濡れていることに気付いた。
――ずいぶん眠ってしまったな……。
久しぶりに、あの傷が痛んだからだろうか。
そう考えた時、書庫の入口から慌ただしい足音が近づいてきた。
エルフナルドを探していたカリルが、こちらへ駆け寄ってくる。
「ここにいらしたのですか。なかなかお戻りになられないので、心配いたしました。……そのご様子ですと、あの傷が?」
汗に濡れたエルフナルドを見て、カリルは不安を隠せない表情を浮かべた。
「……ああ。久しぶりに、少しだけな。だが問題ない」
エルフナルドは首筋の汗をハンカチで拭い、ゆっくりと立ち上がる。
「しかし……一度、医局で診ていただいた方が――。あれから何年も経っているというのに、痛みが出るというのは――」
「大丈夫だと言っている」
エルフナルドは左肩口を押さえ、きっぱりと言い切った。
「……この傷痕を、他の者に見せるつもりはない」
「……」
「忘れたのか。あの日、重傷を負ったはずの私が、一晩で戻ってきた時……周囲が何と言っていたかを」
「……忘れるはずが、ございません」
カリルは目を伏せ、苦しげにそう答えた。
「ならば、この件は二度と口にするな」
それだけ言い残し、エルフナルドは書庫を後にした。
――あの日。
傷が治っていた夜、もはや死んだと思われていた自分が、ほとんど無傷の状態で戻った時、周囲は騒然となった。
多くは安堵してくれたが、中には明らかに怯え、気味悪がる者もいた。
エルフナルド自身、あの夜の出来事を誰かに話すつもりはなかった。
だが、何も説明せずに隊へ戻ることを、リヒターは許さなかった。
結局、リヒターと、当時すでに側近だったカリルにだけ、覚えている限りの出来事を語り、青白く残った傷痕を見せた。
話を聞き終えたリヒターは、静かにこう言った。
――その傷痕は、決して人に見せるな。
戦場では、傷を知られれば、それだけで弱点になり得る。
そして、少女の存在についても、口外は厳禁だと念を押された。
その後、リヒターが少女について独自に調べていたことは察していたが、詳細がエルフナルドに伝えられることは、なかった。
傷痕こそ残ったものの、当初は痛みもなく、腕の動きにも支障はなかった。
だが、ひと月ほどが経った頃から、雨の日や寒い日に左肩が軋むように疼き始めた。
それを表に出さぬよう過ごしていたつもりだったが――。
「エルフナルド。……まさか、傷が痛んでいるのではないか」
そう問われた時、エルフナルドは隠さず答えた。
「……少し疼くだけです」
「……そうか」
その言葉きり、リヒターはそれ以上踏み込まなかった。
ただ、国外から持ち帰った薬草を王宮で育て、傷に効く薬を作ろうとしていたことを、エルフナルドは知っていた。
――だが結局、あの傷に効く薬は、見つからなかった。
***
ユリアは薬事室で、薬草を静かに煎じていた。
「……よし。これで完成だわ」
小さく息をついて呟くと、側で作業をしていたクリックが声をかけてきた。
「今回は、どのようなお薬をお作りになったのですか?」
「薬というより……温湿布のようなものです」
ユリアはそう言って、数種類の薬草を練り合わせたすり鉢をクリックに見せた。
「湿布、でございますか? 普通のものとは違うのですか?」
クリックは興味深そうに身を乗り出し、すり鉢を覗き込んだ。
「一般的な湿布は冷やして痛みを和らげますよね。でも、これは別の薬剤と合わせると反応して、じんわり温かくなるんです」
ユリアはそう説明しながら、ガーゼを二枚取り出した。
「最近は寒い日が続いていますし、血行が悪くなって痛むような古傷には、ただ温めるだけでなく、薬効を加えた方が楽になると思って」
ユリアから手渡された、二種類の薬剤を塗ったガーゼを、クリックは恐る恐る手の甲に乗せた。
「……あ、本当だ。温かくなってきました」
驚いたように目を見開き、クリックはユリアを見た。
「でしょう?」
ユリアは、少しだけ表情を緩めた。
「さすがですね、ユリア様。……でも、少し安心いたしました」
「安心、ですか?」
思いがけない言葉に、ユリアは不思議そうに首を傾げた。
「アリシア様や私が怪我をしてから、ユリア様、ずっと元気がないように見えましたので。……それに、私と顔を合わせるのも、どこか避けていらっしゃるようでしたし……」
クリックはそう言って、わずかに視線を落とした。
「……申し訳ありません」
ユリアは小さく息を吸い、言葉を探すように口を開いた。
「避けていた、というほどではないのですが……ただ、少し……考え込んでしまっていて……」
そこで言葉を濁し、ユリアはすり鉢に視線を落とした。
すると突然、薬事室の扉が勢いよく開かれ、ひとりの侍女が慌てた様子で駆け込んできた。
「クリック様! いらっしゃいますか?!」
クリックとユリアは同時に顔を上げ、扉の方へ視線を向けた。
「どうされましたか?」
「市場で火事が起きまして、負傷者が出ているんです! 市場の医局にいる医師の数が今日は少なく、薬師様方にも協力をお願いしているのですが、なかなか捕まらず……。クリック様は王宮にいらっしゃると聞いて、急いで参りました」
侍女は息を切らし、額の汗を拭いながら訴えた。
「火事ですか……! わかりました。すぐ参りましょう」
クリックはそう言うと立ち上がり、急いで身支度を始めた。
それを見て、ユリアも思わず立ち上がる。
「クリック様、火事でしたら、先日調合した火傷薬があります。私も一緒にお手伝いさせてください」
ユリアは棚から火傷薬の瓶を取った。
「いけません。そんな危険なことを、ユリア様にお願いするわけには――」
「人手が足りないのでしょう? そんなことを言っている場合ではありません」
ユリアはきっぱりと言い切り、クリックより先に扉へ向かった。
クリックは一瞬言葉を失ったが、やがて小さく息を吐き、ユリアの後を追った。
その背を追いかけながら、クリックは気づいていた。
――彼女の指先が、わずかに震えていることに。
扉が閉まる音が、薬事室に重く響いた。




