52 刻まれた痕
ユリアは幼い頃から、兄ヘレンにこう教えられてきた。
戦場でヒーリングの力を使って治してよいのは、ユーハイム国の兵士だけだと。
理由を問えば、いつも同じ答えが返ってきた。
――その力が他国に知られれば、必ず力を巡って争いが起こる。
だからユリアは、どれほど助けを求める声があっても、ヘレンとの約束を破ることはなかった。
それは、幼い少女にとってあまりにも残酷な選択だった。
***
ユリアが八歳の頃――
ヘレンから「力を失う計画」を打ち明けられる、ずっと前の出来事である。
ユリアが参加していなかった隣国との戦争で、多くの負傷者が出たという報告が王宮に届いた。
報告を受けたシルクベイン王は、ユリアと数名の兵士を、治療のため戦場へ向かわせた。
出発した翌日から、大雨が降り続いていた。
嫌な予感が、胸の奥に張り付いて離れなかった。
その夜、山が――崩れた。
土砂と共に流されたのは、ユリアを含む五人。
奇跡的に、ユリアだけが流木に引っかかり助かった。
残る四人の兵士が――土砂に埋まってしまったのか、それともどこかで生き延びているのか。
それすら分からなかった。
周囲を必死に探してみたものの、兵士たちの姿は見つからない。
ユリアは、ひとまず残りの隊と合流しようと、山を登り始めた。
しかし、再び雨脚が強まり、近くにあった洞窟の中へと駆け込んだ。
――また雨が強くなってきてしまった……。
今日は、ここで夜を明かして、明日動いた方がいいかもしれないわ。
ユリアはそう判断し、この洞窟で一晩を過ごすことに決めた。
洞窟の中は、思ったよりも奥行きがあった。
慎重に足を進めていくと、一番奥で何かが動いた。
小さく丸まるように座り込む、人影。
一瞬、死体かと思い、ユリアは思わず足を止めた。
だが、よく見ると、その体はかすかに震えている。
ユリアは恐る恐る近づき、顔を覗き込んだ。
そこにいたのは、十五、六歳くらいの青年だった。
左肩を酷く負傷しており、血で服が濡れている。
意識はほとんどないようだった。
その服装から、ユーハイム国の者ではないとすぐに分かった。
それでもユリアは、せめて応急処置だけでもしようと、青年の服に手を伸ばした。
服をずらして傷口を見ると、想像以上に範囲が広く、傷も深い。
ユリアは自分のズボンの裾を引き裂き、青年の左肩を強く圧迫した。
だが――血は止まる気配を見せなかった。
――このままでは、この人は助からない……。
早く傷を塞がないと……。
でも……。
ユリアは、ヘレンとの約束を思い出し、強く唇を噛みしめた。
こういう場面は、今までも何度もあった。
同じ「人」なのに、ユーハイム国の者かどうかで、助けるか、助けないかを決めなければならない。
そのたびに見てきた、あの絶望した顔を、ユリアは忘れられなかった。
そして今、目の前の青年を見て、胸が痛む。
この歳で戦場に……。
もしかすると、もっと幼い頃から、私のように戦場に立たされていたのかもしれない……。
こんなにも傷つき、血を流さなければならないなんて。
ユリアは、無意識のうちに青年の肩へ手を伸ばしていた。
ユリアは、視線を洞窟の奥へと走らせた。
ここには――自分たち以外、誰もいない。
今この青年を治したとしても、誰にも知られないのではないか……。
ユリアはごくりと唾を呑み込み、意を決したように青年の左肩へ両手を伸ばした。
指先がかすかに震え、心臓の鼓動が耳に響く。
ヒーリングの力は、すぐに傷を塞いだ。
だがそこには、青白い傷痕がくっきりと残った。
ユリアがその痕をなぞった、その瞬間だった。
不意に、手首を強く掴まれた。
「私に、何をしている!!」
青年は目を見開き、ユリアの手首を掴んだまま睨みつけた。
洞窟の薄暗さの中で、顔立ちははっきりとは見えない。
それでも、ブルーに鋭く光る瞳だけは、はっきりと視界に焼き付いた。
ユリアは掴まれたまま、反射的に頭を下げた。
「ひどくお辛そうでしたので、様子を拝見していただけでございます。何もしておりません」
とっさに吐いた嘘だった。
ユリアは千切れた自分のズボンの裾を、身をすくめるように隠した。
青年は自分の左肩に残る傷痕へと視線を落とし、再びユリアを見た。
「私は深く傷を負い、この洞窟で身を潜めていた。おそらく数時間前のことだ。……この短時間で塞がるような傷ではない」
疑念を含んだ声だった。
それでもユリアは、頭を下げたまま首を横に振る。
「私が来た時には、あなたに傷などありませんでした」
声が、わずかに震えた。
「本当に、様子を見ただけでございます」
「……」
ふたりの間に、重たい沈黙が落ちた。
やがて、青年の小さなため息が洞窟に響いた。
「……そうか。もうよい」
青年はそれだけ言うと、ゆっくりと立ち上がり、洞窟の外へと歩き出した。
朝焼けの光の中に溶けるようにして消えていった。
その背中と、あの鋭い青い瞳だけが、ユリアの記憶に強く焼き付いていた。




