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50 揺れる心

 目を覚ました瞬間、胸の奥に、鈍い痛みだけが残った。

 ユリアは、ゆっくりと瞬きをする。

 見慣れた天井。王宮の、自室。


 ここが“今”なのだと理解するまで、少し時間がかかった。

 目を覚ますと、部屋にいたはずのアリシアの姿はもうない。

 ふとテーブルに視線を向けると、一枚の置き手紙が目に入った。

 手に取ってみると、それはアリシアからのものだった。


『ユリア様、どうかゆっくりお休みください。もしお目覚めになられたら……ベッドでお休みくださいね』


 文字を覚えたばかりのせいか、少し不揃いで拙い文字だった。

 それを見つめながら、ユリアは胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。


 ――私は、アリシアに心配ばかりかけている……。


 アリシアは、私が何を恐れているのかを知らない。

 兄と交わしたあの約束が、今も胸の奥に重く沈んでいた。


「お前との世継ぎは作るつもりはない」と陛下がそう仰った時、胸の奥で、ほっと息をついた自分がいた。


 ――あの約束を、破らずに済む、と。


 だが同時に、その安堵は「王妃としての役目から逃げている証」でもあったのだと、ミラベルの言葉によって突きつけられた。


「……私は」


 ユリアは小さく息を吐き、膝に置いた手を握り締めた。

 

 ――この日常は、私が望んでいいものじゃない。


 そう思うたび、胸の奥が、静かに冷えていく。

 

 ――やはり、話せるはずがない……。

 

 ユリアは頭を抱えるようにして、深く俯いた。


 それから二日後。

 ユリアは、ずっと胸の奥に沈めていた問いを、まだ手放せずにいた。


 ユリアとエルフナルドは並んで紅茶を口にしていた。

 湯気の立つカップを手に、エルフナルドがふとユリアに声をかける。


「先日の茶会は楽しめたか?」


 紅茶を一口飲み、ちらりとユリアへ視線を向ける。


「……はい。お花がお好きな方がいらして……その方と、つい話が弾んでしまいました」


 庭園の話をしていた時のことを思い出しながら、ユリアはそう答えた。


「そうか。話の合う者がいたのなら、何よりだな」


 ユリアの様子に、エルフナルドはわずかに安堵したように頷いた。

 しばらく沈黙が流れた後、ユリアは意を決したように顔を上げる。


「陛下……少し、お伺いしてもよろしいでしょうか」

「なんだ? 私に質問とは、珍しいな」


 エルフナルドはティーカップを置き、ユリアを見た。


「陛下には、お兄様がいらっしゃったと聞きました。クリック様からも少し……。とても勤勉なお方で、薬草も育てていらっしゃったと」

「ああ。兄上は優秀で、王に相応しい人物だった。私は兄を兵力で支えるため、騎士団長になった。……本当は私は、王よりも騎士の方が性に合っている。サリトスにもそう言われた」


 そう言って、エルフナルドは小さく鼻で笑った。


「だが兄上が亡くなり、王になるべきは私になった。それで騎士団を退いた。騎士団は後輩たちに任せるしかなかったが、本当はもっと時間をかけて育てたかった」

「……そう、だったのですね……」


 ユリアは静かに頷き、視線を落とした。


「戦場に出てばかりの私に王が務まるのか、最初は迷った。だが、戦の多いこの国を変えたいという思いもあった。今は……自分がすべきことも、理解しているつもりだ」

「……もう一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」


 少し緊張した様子で、ユリアは言葉を選ぶ。


「ああ。何だ?」

「……ルトア国のキャロル様からの求婚を、お断りになったというのは……本当なのでしょうか」


 俯いたまま、しかしはっきりと問いかける。


「……なぜ、お前がそれを知っている?」


 エルフナルドは眉をひそめた。


「……先日のお茶会で、少し耳にしまして……。もし、それで両国の貿易に不利益が生じるようなことがあれば……」


 言いかけた言葉に、エルフナルドの表情がわずかに険しくなる。


「それも茶会で聞いたというのか?」


 その変化に気付きながらも、ユリアは引かなかった。


「……もし、それが国のためになるのなら……私は、陛下の判断を妨げる存在であってはいけないと思いまして……」

「それが、王として私がすべきことだと――思っているのか?」


 苛立ちを含んだ声に、ユリアははっとして頭を下げる。


「い、いえ……そのようなつもりでは……」

「……我が国とルトアは長年の繋がりがある。婚姻を結ばずとも、関係が途切れることはない。キャロル姫も、そんなことで縁を切るような女ではない」


 エルフナルドは、きっぱりと言い切った。


「それに、あの日も言ったはずだ。娶る相手は自分で決めると。この話は、二度とするな」

「……出過ぎた真似を致しました。申し訳ありません……」


 ユリアは、深く頭を下げた。


「分かったのなら、それでいい」


 低く告げられたその声が、静かに胸に沈んだ。


 ――私は、陛下に何と言ってほしかったのだろう。


 その答えを、自分で口にすることができなかった。

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