23 北の国の噂
庭園での作業を終えた後、ユリアは書庫で薬草について書かれた本を探していた。
高い書棚に囲まれた静かな空間で、背表紙を一つひとつ確かめていると、不意に書庫の扉が開く音がした。
誰かが入ってきた気配に顔を上げると、そこに立っていたのはフレドリックだった。
「こんにちは、ユリア様」
舞踏会の時と変わらない、柔らかな笑顔でフレドリックは声をかけてきた。
「フレドリック様、こんにちは。フレドリック様も……本をお読みになるのですか?」
「うーん……そうですね。たまに、ですかね」
どこか含みのある言い方でそう答えると、フレドリックはゆっくりとユリアの方へ歩み寄ってきた。
一歩、また一歩と距離が縮まるたび、ユリアの胸に緊張が走る。
フレドリックは、ユリアの手が届くかどうかという距離で立ち止まった。
――あいつには近付くな。
エルフナルドの言葉が、脳裏をよぎった。
とはいえ、あからさまに距離を取るわけにもいかず、ユリアはその場を動けずにいた。
「ユリア様は、本がお好きなのですか?」
フレドリックはユリアの背後の本棚に手を伸ばし、無作為に一冊を抜き取ると、ぱらぱらとページをめくった。
「この辺りは、あまり女性向けの本はなさそうですが」
「植物が好きなもので……。私のいた国と、アルジール国では咲く花も違いますし、興味が湧いただけです」
そう答えて、ユリアは小さく頭を下げた。
「なるほど……」
フレドリックは本を棚に戻すと、ふと思い出したように言った。
「そういえば、ユリア様はこんな噂をご存知ですか?」
ちらりと投げられた視線に、ユリアは顔を上げた。
「北の国に、傷を癒す魔物が住んでいるという噂です」
――それは、薬でも祈りでもない、“何か別のもの”だという。
「その魔物は、どんな傷でも治してしまうのだとか。……ただし、代償として、一生消えない傷痕を残すそうですが」
フレドリックは言葉を区切りながら、じっとユリアの顔を覗き込んだ。
その鋭さに、ユリアは思わず視線を逸らし、俯いてしまう。
「……初めて聞くお話です。私の国では、そのような噂は一度も」
「……そうですか」
少し間を置いて、フレドリックは続けた。
「私達にはリヒターという兄がいまして、その兄上がその噂を耳にし、少し調べていたことがあったのです。ユリア様は北に近いお国のご出身でしょう? 何かご存知かと思ったのですが……残念ですね」
「……お力になれず、申し訳ありません」
顔を上げると、フレドリックは先ほどと変わらない笑顔を浮かべていた。
「いえ、お気になさらず。それでは、私はこれで」
深く一礼し、フレドリックは静かに書庫を後にした。
――北の国の魔物……?
クリック様は、リヒター様がそんな噂を調べていたなんて仰っていなかった。
それに……なぜフレドリック様が、そんな噂を知っているの?
しかも、傷を癒すって……まさか……。
ユリアの首筋を、冷たい汗が伝った。
また別の日。
ユリアは再び書庫を訪れていた。
先日フレドリックから聞かされた話が、どうしても頭から離れなかったのだ。
高い書棚の間を歩きながら、無意識に背筋が伸びる。
静まり返った書庫には、自分の足音と、布擦れの音だけがやけに大きく響いていた。
クリックに尋ねても、はっきりした答えは得られなかった。
――ならば、自分で確かめるしかない。
棚を一段ずつ見上げ、背表紙に刻まれた文字を追っていく。
植物名、薬効、地方誌――
どれも見覚えのある分類ばかりで、目当てのものはなかなか見つからない。
――やっぱり、考えすぎなのかしら。
半ば諦めかけ、視線を落としたときだった。
棚の奥、ほかの本に隠れるようにして、不自然な「隙間」があることに気づく。
そっと手を伸ばし、指先で確かめる。
「……?」
引き抜いた本には、題名がなかった。
文字も、記号も、何一つ刻まれていない。
古びた革表紙。
時間の経過を感じさせる、独特の匂い。
胸が、どくんと脈打つ。
ためらいながらも、ユリアは表紙をめくった、その瞬間。
そこに描かれていた紋章を見て、ユリアの心臓が跳ね上がった。
「……このマーク……この紋章は……」
喉が、ひくりと鳴る。
「……ティーン国のものだわ……」
一気に鼓動が早まり、額から冷や汗が滲み出る。
――どうして、ティーン国の紋章が刻まれた本が、この国に?
ティーン国の存在は、ごく一部の者しか知らないはず。
ユーハイム国に囚われてからは、なおさら他国の者が知るはずもないのに……。
先日のフレドリックの言葉。
自分がこの国に嫁がされた理由。
そして、このティーン国の本。
もし、それらがすべて繋がっているのだとしたら――。
ユリアは頭を抱え、その場にしゃがみ込んだ。
「……そんなはず、ないわ……。絶対に、嘘よ……」
震える声で、ユリアは呟いた。
「……そうでしょう? お兄様……」




