16 二人の関係
ユリアは、その日の庭園での作業を終え、自室の椅子に腰掛け、本を開いていた。
コンコン、と控えめなノックの音がする。
返事をすると、アリシアが静かに扉を開けて入ってきた。
だが、いつもならすぐに口を開くはずのアリシアが、今日はなかなか言葉を発しない。
ユリアは本を閉じ、不安そうに首を傾げた。
「どうしたの、アリシア?」
促されて、アリシアは一瞬視線を伏せ、それからおそるおそる口を開いた。
「本日は……陛下が、ユリア様とご一緒にご夕食を取られるとのことです」
「えっ……?」
思わず声が裏返り、ユリアは勢いよく椅子から立ち上がった。
「ほ、本当なの? 今まで一度もご一緒したことがないのよ? 急にどうして……何かあったの?」
アルジール国に嫁いできてから、すでに二ヶ月。
あの婚姻の儀以来、ユリアは食事どころか、正式に言葉を交わす機会すらなかった。
「私も……陛下の側近であるカリル様から、そうお伝えするように言われただけで……詳しいことは何も存じません」
申し訳なさそうに言うアリシアに、ユリアは小さく息を吐いた。
「……そう。わかったわ」
夕食までの時間、ユリアは再び本を開いた。
けれど、文字はまったく頭に入ってこない。
胸の奥がざわつき、ページを追うたびに、エルフナルドの姿が脳裏をよぎった。
やがて夕食の時間となり、ユリアは指定された部屋へ向かった。
扉の前で一度深呼吸をし、そっと中を覗く。
――よかった。……まだ、いらっしゃらないわ。
室内には誰の姿もなく、ユリアは思わず胸を撫で下ろした。
「早く席に着いてくれないか」
背後から突然かけられた低い声に、ユリアはびくりと肩を震わせた。
勢いよく振り返ると、すぐ後ろにエルフナルドが立っていた。
「あっ……! えっと……も、申し訳ございません」
慌てて頭を下げ、ほとんど逃げるように席に着く。
ほどなくエルフナルドも向かいの席に腰を下ろした。
「あの……お久しぶりでございます、陛下。お障りなくお過ごしでしたでしょうか」
「ああ」
視線すら寄越さず、短く返される返事。
ユリアは一瞬言葉に詰まりながらも、ぎこちなく続けた。
「そうでしたか。私の方も……変わりなく過ごさせていただいております。ありがとうございます」
頭を下げても、エルフナルドが応じることはなかった。
それ以降、食事の席に会話はなく、静かな室内に、食器の触れ合う音だけが、やけに大きく響いた。
食後のお茶が運ばれてきた頃、ようやくエルフナルドが口を開いた。
「……今夜は、寝室で眠る。お前も来い」
それだけ告げると、彼は席を立ち、振り返ることなく部屋を出ていった。
残されたユリアは、言葉の意味をすぐには理解できず、呆然とその背を見つめていた。
やがて、はっとして後ろに控えていたアリシアへ視線を向ける。
「……ということですので」
アリシアは察したように静かに言い、
「ご準備をいたしましょう、ユリア様」
と、穏やかに続けた。
準備を終えたユリアは、結婚式の夜以来、初めて自室の隣にある寝室へと足を踏み入れた。
――前と同じように、椅子でお待ちすればよいのかしら……?
それとも……今日は、違うの?
そう考え、部屋の奥に置かれた椅子に腰を下ろす。
背筋を伸ばしたまま、ユリアは静かにエルフナルドの到着を待った。
程なくして、エルフナルドの部屋と寝室を繋ぐ扉が音もなく開いた。
入ってきた気配に、ユリアは慌てて立ち上がった。
エルフナルドは一瞬だけユリアに視線を向け、そのまま歩み寄ると、彼女の正面に置かれた長椅子に腰を下ろした。
まさか真正面に座られるとは思っていなかったユリアは、わずかに目を見開いたが、すぐに気を取り直し、姿勢を正して座り直した。
「本日もご公務、お疲れ様でございました。何かお飲みになりますか? お酒もご用意がございますが……」
「……では、一杯ワインをもらおう」
ユリアは立ち上がり、部屋の隅に置かれた酒瓶の載ったワゴンへ向かった。
ワインボトルを手に取ったものの、栓がコルクであることに気づき、首を傾げる。
――見たことはあるけれど……自分で開けるのは、初めてだわ。
引き出しを開けて道具を探すが、それらしいものは見当たらない。
「……お前は、ワインボトルの開け方も知らないのか?」
じっと様子を見ていたエルフナルドが、痺れを切らしたように立ち上がり、近づいてきた。
「申し訳ございません……」
しゅんと肩を落とすユリアの手からボトルを受け取ると、エルフナルドは慣れた手つきでオープナーを使い、あっという間にコルクを抜いた。
「まあ……! コルクは、そのように外すのですね」
さきほどまでの落ち込んだ様子から一転し、ユリアは興味津々に目を輝かせてその一連の動作を見つめた。
「お前は酒を飲んだことがないのか? 食事の席や舞踏会でも、目にすることはあるだろう」
不思議そうに尋ねられ、ユリアは少し困ったように視線を伏せる。
「……実際に飲んだことはございません。そういった場に出る機会も、ほとんどなくて……」
「……まあ、よい。お前も飲んでみるか?」
「いえ! 私は大丈夫です」
そう言って、ユリアは自分のグラスに水を注いだ。
エルフナルドは長椅子に戻り、ワインを一口含んでから、淡々と口を開く。
「……一週間後に舞踏会がある。お前にも出席してもらう」
「……舞踏会、ですか。…………わかりました」
返事をしながらも、ユリアはじっとエルフナルドの顔を見つめた。
何か言いたげなその視線に気づき、エルフナルドは小さくため息をつき、足を組む。
「何かあるなら、言え」
「あ、あの……舞踏会では……私は、どのように振る舞えばよろしいのでしょうか?」
その問いに、今度ははっきりと呆れたようなため息が落ちた。
「……本当に、お前は王女だったのか?」
半ば独り言のように呟き、残っていたワインを一息に飲み干す。
「……申し訳ありません」
「明日から指導者をつける。当日までに作法とダンスを叩き込め。私の顔に泥を塗るような真似はするな」
そう言い残し、エルフナルドは立ち上がると、寝室中央のベッドに横になった。
「……精一杯、努めます」
ユリアの言葉に返事はなく、部屋には静けさが戻った。




