借金まみれの貧乏令嬢、婚約者に捨てられ王子様に拾われる ~家を再興するため街で働いていたら、実は王子様だった常連に宮廷へスカウトされました~
今日は特別な日だ。
年に二度、王都に席を置く全ての貴族が招かれ集まるパーティーが開かれる。
貴族同士の交流、情報交換が主となる催しには、王族も参加する。
自分の存在を王族にアピールしたり、未来の夫、妻を探す場としても設けられる。
重要なのは、どんな貴族であっても参加できるということ。
たとえばそう、私みたいに貴族とは名ばかりの貧乏令嬢だとしても。
「アイリス、君とは長い付き合いだ。こんな形になってしまうことに心苦しさはある。けれどあえて言わせてもらうよ」
そんな大きな催しで、婚約者の彼は私に告げる。
冷たく、抑揚もなく、ハッキリと。
「君との婚約を破棄したいと思っている」
「……え?」
突然のことで言葉を失った。
彼とは婚約者になってから五年は経過している。
出会った時から数えたら、十年以上の付き合いだった。
小さいころから知っているいわゆる幼馴染。
お互いのことはよく知り、分かり合っていると思っていた。
「マルク様……? 今……なんと……」
「君との婚約を破棄したい」
「――!」
「聞こえないなら何度でも言おう。もっと大きな声で言ってほしいならそうする」
周りには大勢の貴族たちが談笑していた。
こちらに興味なさげなフリをして、チラチラと見ている。
中には見物人のごとく、私たちを見ながらケラケラと笑う姿もあった。
すでに悪い意味で注目されている。
これ以上は……みじめだ。
「いえ……でも、どうして?」
「そうだね。僕たちの婚約は、君の家……ルストワール家が没落する前に結んだものだった。家同士の親交を深めるために決められたものだったが、僕は構わなかった」
「わ、私も……マルク様のことが……」
私のルストワール家と、マルク様のアイスバーグ家は三世代ほど前から交流が深い。
両親の世代でも変わらず、家族ぐるみの付き合いがあった。
親交が深い家同士で、婚約者を見つけるのはよくある話だ。
政略的な意味が強い関係性だけど、私は気に入っていた。
マルク様は女性好きで、よく他の女性とも仲良くしている姿を見る。
それでも私の婚約者で、私を一番に考えてくれている。
必ず最後は私の元へ戻ってきてくれる。
何より私が一番長く彼と付き合い、通じ合っていると思っていた。
だけど……。
「悪いけど僕は、そこまで君のことを愛していたわけじゃないんだ」
「――!」
どうやら本気で思っていたのは、私のほうだけだったらしい。
婚約者になって五年……今さらになって真意を知る。
「もちろん嫌いだったわけじゃない。君は真面目だし、容姿も悪くない。特にその桃色の髪は珍しくて綺麗だと思っていたよ」
彼はゆっくり手を伸ばし、私の髪に優しく触れる。
桃色の髪は珍しく、こうした大勢集まる場でもよく目立つ。
今までも彼はよく褒めてくれた。
他人と違う髪はコンプレックスだったけど、彼が褒めてくれるから誇りに思えた。
「けどね……」
彼はさらりと、私の髪から手を放す。
そうして人が変わったように、冷たい視線で私を見下す。
「ずっと見ていたら飽きてしまったよ」
「マルク……様?」
「改めて気づいたよ。君の魅力はその珍しい髪くらいだ。それ以外は何もない。君と一緒にいても楽しくない。つまらないんだ」
「え……」
突然始まる罵倒に私は困惑する。
いつも優しい言葉をかけてくれる彼から、聞いたことのない罵倒が聞こえる。
「まだ没落前だったらよかったよ? 地位はあるし、お金もある。将来性もあったからね? けど今はどうかな? 没落した今の君は、貴族の癖に街で働いている。君が周りでなんと呼ばれているか知っているかい? 貧乏令嬢だよ」
「貧乏……令嬢……」
「そう。まったくその通りだと思ったよ。今の君は一般人となんら変わらない。君と僕とじゃ、もう釣り合わないんだ」
出会って十数年、婚約者となって五年。
分かり合っていると思っていたのは一方通行で、初めて知る彼の本音……本質。
ある意味貴族らしい考え方だった。
地位や威厳を何より大事にすることは、貴族では当たり前の考え方ではある。
ただし彼の場合はそれだけじゃなくて、彼自身の好みも入ってくる。
「君がもっと女性として魅力的ならよかったのだけどね? 生憎君より魅力的な女性はたくさんいる。この会場を見てごらん? 君が張り合えるのはせいぜいその髪だけだろう?」
彼は大げさに両腕を広げてアピールする。
いつの間にか彼の周りにはたくさんの令嬢が集まっていた。
知っている顔もあれば、知らない顔もある。
その中の一人……特に煌びやかで目立つ格好をしている金髪の女性が、マルク様の隣に立つ。
徐にマルク様は彼女の肩に手を回す。
「紹介するよ。彼女が僕の新しい婚約者、レティシアだ」
「ごきげんよう、アイリスさん」
彼女はニコリと微笑む。
よくできたガラス細工みたいな瞳で、私のことをじっと見つめる。
表の笑みに隠れて、瞳の奥で私のことをあざ笑っているように見えて、胸がチクチクと痛い。
レティシア・ミストレイン公爵令嬢。
私の家が没落してから交流を持つようになり、ことあるごとに私のことを馬鹿にするような陰口を言っていた人だ。
よりによってこの人と……いいや、だからこそだろう。
彼女が影でマルク様にアプローチしていることは知っていたし、マルク様とよく二人で会っている姿を見ている。
告げられたのは唐突だけど、思い返せば今に始まったことじゃない。
ずっと前から……こうなることはわかっていたんだ。
意気消沈しながら、私はマルク様に尋ねる。
「周りの……方々は?」
「ああ、彼女たちかい? 君と婚約を破棄する話をしたら、自分が婚約者になりたいと言ってくれた女性たちだよ」
「……」
私より先に、見知らぬ女性たちにこの話をしていたらしい。
不謹慎で、不誠実だ。
少しだけ苛立ちを覚える。
「まったく困ったものだよ。第二、第三夫人でも構わないというんだ」
「私は、私を一番に思って頂けるならそれでいいと思っています」
「と、彼女も言ってくれていてね。そんなつもりはなかったんだが、僕は多くの女性を虜にしてしまっていたらしい」
「罪な人ですね。でもそこも含めて素敵です」
目の前で抱き寄せ合い、いちゃいちゃと見せつけてくる。
レティシア公爵令嬢以外の女性も、我よ我よとマルク様の周りに群がってくる。
マルク様はとても嬉しそうな表情を見せていた。
私はこの人のことが好きで、信じていたけど、こんな光景をマジマジと見せられれば心は冷えていく。
どうしてこんな男を好きになっていたのか……疑問すら浮かぶ。
やがて疑問は怒りに代わり、ふつふつと煮えたぎる様に沸き上がる。
「……いつから、お考えになられていたのですか?」
「この話かい? そうだね。君の家が没落してからかな?」
「五年も……ならどうして、その時におっしゃってくれなかったのですか!」
私は思わず叫んでしまった。
彼を信じたこの五年間は、一方通行でしかなかった私の思いは、一体何のためにあったのかと。
遊ばれていただけだったことに気づかされ、私は声を荒げる。
そんな私に少し驚いたマルク様は、ニヤリと笑みを浮かべて言う。
「それはもちろん、君が可哀想だったから仕方なくだよ」
「――!」
「だってそうだろう? 突然両親が病死、独りぼっちになった君を見ていられなかったんだよ。これでも長い付き合いだから情くらい湧くさ」
「まぁ、なんてお優しい。そのマルク様の御心に気づけないなんて……最低ですね」
レティシアさんが私のことをギロっとにらむ。
最低など、どの口が言うのか。
本気で心配していたわけじゃないことくらい、マルク様の表情を見れば一目瞭然だ。
思えばあの時から、マルク様は私に隠れて他の女性と遊ぶようになっていた。
きっと好機に思ったのだろう。
私の両親がいなくなり、監視する目が減ったことで、自由に逢瀬できるのだから。
心配したというのもテキトーだ。
どうせ世間体を気にして、婚約者だったから仕方なく付き合い続けただけだろう。
「この話……アイスバーグ公爵様には」
「もちろん父上には伝えてある。残念がっていたよ。父上は君のことを本当の娘のように思っていたみたいだからね」
「そうですか。わかりました」
私は頭を下げる。
当主への話を通してある以上、この決定はもはや覆らない。
貴族としての地位も肩書もボロボロな私には、異を唱える力もない。
むしろ、最低な男と離れることができて清々している。
私は長く夢を見ていたのだろう。
質の悪い夢からようや覚めることができた。
「今までありがとうございました」
ただ、それでも……感謝はしている。
アイスバーグ家の支援がなければ、私の家はとっくに完全になくなってしまっていた。
五年前に縁を切られていれば、私は路頭に迷っていたに違いない。
多くを失い、利用されていたとしても、彼とアイスバーグ家のおかげで私は生きる意味を失わずに済んだ。
必ずルストワール家を復興させる。
そのために私は一人で頑張ってきた。
この頑張りだけは、何を失っても消えはしない。
「まぁ頑張っておくれよ。君の家への支援については、父上に全て任せてあるから。これからは父上と直接話をしてくれればいい」
「わかりました」
もうこんな場所にはいられない。
せっかくのパーティーだけど、早々に退散したい気分だ。
すでに多くの人たちに見物され、笑い物にされてしまっている。
これ以上いるのは……惨めすぎる。
私はマルク様に会釈をして、一人背を向けて歩き出そうとする。
「ああ、そうだ」
そんな私をマルク様の声が呼び止める。
私は立ち止まり、首だけ振り向く。
視界に映ったマルク様の表情は、気持ち悪くニヤケていた。
「君がもし望むなら、僕の愛妾くらいにはしてあげてもいいよ?」
「……」
数秒の静寂を挟む。
私は彼に、精一杯の笑顔を作って答える。
「ご遠慮させていただきます」
女性を顔と身体でしか判断していない。
私という婚約者がいながら、影でこそこそ複数の女性と関係を持つ。
そんな最低な男の愛妾になる?
頼まれたってごめんだ。
私は正面を向きなおし、彼らに背を向けて歩き出す。
「そうか、残念だ……同情するよ」
最後に何か、マルク様が私に言った気がする。
イライラしていた私は速足でパーティー会場を出て行ってしまった。
だからハッキリとは聞こえていない。
彼の言葉の真意も……わからなかった。
◇◇◇
ルストワール家は王都でも名のある公爵家だった。
王国誕生から脈々と代を重ね、王家の信頼を獲得し、少なからず国政への影響力を有していた。
積み重ねてきた信頼と実績は、ルストワール家の誇りそのものだった。
だけど私の両親の代で、その誇りは失われてしまった。
五年前に私の父が突然の病に倒れ、治療法もわからないまま流れる様に亡くなった。
その後を追うように、母も謎の病に倒れてしまった。
家を支える柱を失ったことで、ルストワール家は没落してしまった。
まだ幼い私にはどうすることもできなかった。
管理できないならと領地も国に取り上げられ、仕えていた人たちも次々に辞めていった。
当時から懇意にしていたアイスバーグ家の支援のおかげで、なんとか屋敷だけは失わずに済んだけど、それ以外のほぼ全てを失った。
どれだけ時間をかけ、慎重に積み重ねていようとも、崩れるのは一瞬だと思い知らされた。
一人になった私は途方に暮れた。
大好きだった両親がいなくなって、心に大きな穴が空いた気分だった。
これからどうやって生きていけばいいのだろう。
泣きながら悩み、苦しんで思い出したのは……毎日忙しそうに働く両親の姿だった。
二人とも、ルストワール家を誇りに思っていた。
世代を超えて受け継がれてきたこの家を守るために必死だった。
そんな二人を見ていた私は、早く大きくなって二人を手伝いたいと思うようになっていた。
病に倒れ、命を失うその時まで、二人は必死に抗っていた。
誰よりも身近で見てきた私には、二人の無念さが嫌というほどわかる。
だからこそ思った。
私が守らなきゃいけないんだ。
ルストワール家の令嬢として、最後の一人として。
この家を終わらせて堪るものか。
父と母が守ろうとした場所を、二人のせいで失ったなんて言われたくない。
私は目標ができた。
ルストワール家を再興し、二人が守りたかったものを取り戻す。
この決意は生きる活力になった。
そこから私の戦いは始まった。
ルストワール家を再興するには何が必要なのか。
一番はお金だった。
二人が病死したことで、担当していた仕事が全て滞り、各方面に多大な迷惑をかけている。
その埋め合わせをするため、家に残っていたお金は全て使ってしまった。
財源だった土地や物も王に回収されている。
屋敷はアイスバーグ家が買い取る形で維持してもらっている。
つまり、この時の私はほぼ無一文だった。
何をするにもまずはお金がいる。
お金を稼ぐ方法を考え、自分には何ができるのかを探った。
そして、私は街で小さなお店を開くことにした。
建物や設備はアイスバーグ家に借金をして揃えてもらい、開業したのはアイテム屋さんだ。
ポーション、魔導具、素材、食品などなど。
様々なものを取り扱うお店だ。
開業に一年、それから四年……。
「――ふぅ、今日も頑張らないと」
私はこのお店で働いている。
お店は週六日、朝から夕方まで開いている。
早朝にお店に入り、掃除や片づけをざっくりしてから品ぞろえを最終確認する。
「治癒ポーション、耐性系ポーション……よし」
棚に並んだポーションと、箱にしまわれた在庫もチェックする。
別の棚にはアクセサリー類。
ただの貴金属ではなく、魔法が込められた道具だ。
他にも魔物の素材や、薬草などの植物系の素材も取り扱っている。
食料品は、遠出するときに便利な携帯食料が主だ。
品揃えを見てわかる通り、ここで売っている物のほとんどが冒険者向けのものが多い。
「さて、時間だね」
朝の七時になり、お店がオープンする。
開店してから五分、さっそくお客さんが入ってくる。
「いらっしゃいませ」
カランとベルが鳴って入ってきたのは、いかにも柄の悪そうな男性だ。
筋肉質でスキンヘッド。
見た目だけでも目の前に立たれたら萎縮してしまう。
「おう! アイリスちゃん、今日もいつものやつ頼むぜ」
「はい」
実はこの人、常連さんだ。
冒険者ギルドに所属していて、冒険前にいつもここで必要なものを揃えていく。
見た目は怖いけど、気さくでとてもいい人だ。
「治癒ポーション二本と、解毒ポーション二本、それから簡易テントですね」
「おう。あーそうだ。実は身体強化の腕輪が壊れちまってよぉ、見てくれ」
「はい」
彼は右腕にしている腕輪を見せてくれた。
ただの腕輪ではなく、装着すると身体能力が少し向上する魔導具だ。
「あー、確かにボロボロですね。でもコアは無事なので修理はできると思います。どうされますか?」
「うーん、修理できても結構経ってるからな。いいや、新しいのを買う。こいつは回収してもらえるか?」
「はい。じゃあその分お値引きさせてもらいますね」
「おう助かるぜ。ここは他の店より価格が安いし質もいい。俺ら冒険者にとっちゃ最高の店だな」
「ありがとうございます」
そう言って頂けると頑張って働いている心も報われる。
私は新しい魔導具を棚から取り出す。
「しっかしホント安いよな~ これ全部自分で材料揃えてるんだろ?」
「はい。お休みの日に」
「若いのにすげぇよな~ そんだけ動けるならいっそ冒険者になっちまえばいいのに」
「それはちょっと……」
考えたことはある。
けど私は別に、冒険がしたいわけじゃなかった。
私の目的はあくまで、ルストワール家を再興するための資金集めだ。
何より依頼を受けてお金を貰うより、こうして自分で素材を集めて商品を揃え、売買するほうがお金を集めやすい。
「わーってるよ。アイリスちゃんは家を復活させるために頑張ってるんだもんな。個人的にはもったいねーと思うけど、今で十分助かってるし、応援してるぜ」
「ありがとうございます。お気をつけて」
「おう。また来るぜ!」
気さくな冒険者の男性は去って行く。
それと入れ替わるように、新しいお客さんが入ってきた。
「いらっしゃいませ」
「ポーションが欲しいんだけど」
「はい。どんな効果のものでしょうか?」
店の前の通りは冒険者がよく通る。
朝は冒険前で一番忙しい時間帯だ。
ピークが過ぎるまで頑張ろう。
心の中でぐーっと拳を握るイメージをして、私は気合を入れる。
◇◇◇
「はぁ……疲れた」
正午前。
ピークが過ぎて、ようやく客足が落ち着いた。
たくさんのお客さんに利用してもらえるのは嬉しいけど、一人で回しているから毎日大変だ。
特に午前中は冒険前の準備で一気にお客さんが来る。
日に日にお客さんも増えて、そろそろ一人じゃきつくなってきた。
「でも人は増やせないし……」
これからもっとお金がいる。
人を雇うことを視野に入れていたけど、昨日の件で考えなくてはならなくなった。
アイスバーグ家の支援が今後も続くとは限らない。
もし婚約破棄で関係がなくなれば、私に残るのは多額の借金だ。
屋敷もアイスバーグ家保有になっているから、私の手元には何も残らない。
このお店も、アイスバーグ家のお金を借りて経営している。
毎月利益の一部を返済に当てながら、なんとかギリギリの生活を続けてきた。
アイスバーグ公爵がどうお考えか……それ次第でいろいろ変わる。
「はぁ……」
「いつになく憂鬱そうだな」
「――あ、レン君」
カランと音が鳴り、一人の青年が店にやってきた。
フードを片目が隠れるほど深くかぶり、どことなく怪しい格好だけど、彼もここの常連さんだ。
中でも彼は特別……。
「ほい、今日の分だ」
「わぁ、いつもありがとう!」
「いいって、どうせ使わないからな」
彼は袋から薬草やモンスターの素材をカウンターに広げる。
このお店では素材の買取もしているけど、彼とは少し変わった契約を結んでいた。
彼の素材を貰う代わりに、ここに置いてある商品はタダで使ってもいいという。
一見、お店に都合の悪い契約に見えるけど、実際は逆だ。
使っていいとは言ってあるのに、彼がお店のものを使ったのは一度か二度くらい。
ほとんど一方的に素材を納品してくれる。
「毎回聞くけど、本当にいいの?」
「いいよ。その代わり、俺が本当に困った時は助けてくれ」
「もちろんだよ。なんでもお手伝いする」
彼が素材を納品してくれるお陰で、私も休日に素材を取りに行く手間が省ける。
始めた頃はほぼ休みなしだったけど、幾分かマシになった。
それにしても謎が多い人だ。
彼が何者で、普段はどこで何をしているのかさっぱりわからない。
知っているのは名前と、年齢が近いことだけだ。
悪い人ではないことは、二年以上の付き合いでわかっている。
……なんて、もう言えないか。
十年以上一緒にいた男の本性すら、私は見抜けなかったのに……。
「何かあったのか?」
「え?」
「辛そうな顔してるぞ」
「……いろいろあった、かな」
気を付けていたつもりでも、顔に出てしまっていたらしい。
レン君はカウンターにもたれ掛かり、私に視線を向けて囁く。
「ちょうど暇だ。話くらいは聞けるぞ?」
「……うん」
誰かに聞いてほしかった。
相談したいと思っていたから、私はレン君にいきさつを話す。
私の家が没落寸前なことも、どうしてここで働いているかも彼は知っている。
最初は話すつもりなんてなかったのに、不思議と彼と話していると和んで、口が勝手に動いてしまう。
彼なら聞いてくれる。
頷いて、理解してくれるような気がして……。
「ひどいなその男……よく五年も続いたな」
「私が馬鹿だったからだよ」
「そうかもしれないけど、向こうも馬鹿だと思うぞ? 髪以外に魅力がないとか、人を見る目がなさすぎる」
「レン君?」
彼はおもむろに、私の髪に触れる。
マルク様と同じように、けれど少し控えめに。
「髪が綺麗じゃなくて、髪も綺麗なんだ。俺は君が頑張っていることを知っている。この店に通っている者たちもそうだ。この店が、君自身に魅力が溢れているから、客も増えていく。何より頑張ってる奴は好きだよ」
「レン君……」
彼の言葉が、心に溶け込む。
頑張りを認めてほしかったわけじゃない。
私がやりたいと思ったことだから、周りから馬鹿にされようとも、私がそうありたいと思ったから。
それでも、彼の言葉は嬉しかった。
彼の言葉が、話し方が、息遣いが……どこか両親に似ていたから。
私が何かをやり遂げると、優しく語り掛ける様に褒めてくれた父と母の姿を思い出す。
堪えていた涙が溢れそうになって、慌てて袖で拭う。
「ありがとう。元気出たよ」
「そうか。俺にできることがあれば言ってくれ」
「うん」
その言葉だけで私は救われている。
大変なことばかりだけど、今日も、明日も頑張ろうと思える。
いつの間にか彼の言葉が、私の支えになっていたことに気付かされた。
彼だけじゃない。
このお店に来てくれる人たちの言葉も、私に勇気をくれる。
「じゃあ俺は行くよ。長居しても邪魔になるしな」
「そんなことないけど」
もう少し話をしていたかった。
けれど私こそ、彼の邪魔をしたくない。
「また来てね」
「ああ」
手を振り、彼を見送る。
毎日会えるわけじゃないから、次はいつ来てくれるだろうと想像する。
別れたあとはいつも寂しい気持ちになった。
もう少しだけ……。
なんて思っていると、カランとベルが鳴る。
「やぁ、アイリス」
「アイスバーグ公爵様……」
戻ってきてくれたのかと一瞬期待して、現実に戻された。
姿を見せたのは彼ではなくて、私の元婚約者の父親。
小太りでおでこが広いこの人が、私やルストワール家をギリギリのところで助けてくれた。
マルク様以上に感謝している相手なのだけど……私はどうにも、この人が苦手だ。
「仕事中だったかな? 少し時間を貰いたいのだけど、構わないかい?」
「はい。少しであれば」
「そうかそうか」
彼は私の近くに歩み寄り、顔と手を近づけて髪に触れる。
一番乱暴で、強引な触り方だ。
「今日も綺麗だね、アイリスは」
「あ、ありがとうございます」
この眼が……あまり好きになれない理由の一つ。
助けてもらった相手に、こんなことを思うなんてひどいと自覚している。
だけど彼の瞳はじとっとして、粘っこくて、いやらしい。
二回りも年の離れた私を、性的な目で見ているような気がして……。
「ところで聞いたかな? マルクの件」
「――はい。すみませんでした」
「君が謝ることじゃないよ。あの子が決めたことなんだから」
「……その、私はどうすればいいのでしょうか」
今後の支援、関係性については確認したいと思っていた。
恐る恐る尋ねる私に、彼にニヤリと怪しく笑う。
「そのことで話がしたかったんだ。わかっていると思うけど、婚約が破棄された以上、私の家と君の家との関係はなくなる。手厚く支援していたのも、将来的に君との関係が続くという保証があったからだ」
「ですが今は……」
「そう、なくなった。世間的にも、もはや支援する意味はない」
「……」
アイスバーグ公爵様が言っていることに間違いはない。
貴族の関係性としては至極真っ当。
利のない関係など続ける価値はなく、そもそも私の家は彼らの支援がなければ没落していた。
婚約者でもなくなった今、彼らが得することは何もない。
「支援がなくなれば……このお店や屋敷は、どうなるのでしょうか」
「当然、屋敷は私が買い取っているから私がもらう。店に関してはそうだね。君に貸したお金を今すぐに返却できるなら、このまま続けても構わない」
「い、今すぐ?」
そんな大金はどこにもない。
今だって、生活するためのお金を切り詰めて、毎月売り上げのほとんどを返済に使っている。
私の手元には、自由に使えるお金なんて残っていない。
「できないかな?」
「……」
せっかく頑張ってきたのに、ここでお店も失ったら……。
悔しさで手に力が入る。
何もできない自分に腹が立ってくる。
そんな私に、彼は囁きかける。
「ただ、私もここまできて見捨てるのは忍びない。君とも長い付き合いだったからね。一つ条件を満たしてくれたら、このまま支援を続けよう」
「条件?」
「ああ、簡単だ。今ここで決められる」
それは私にとっての希望になる……はずだ。
私は彼の表情を見て、ゾッとする。
言葉にする前から、彼が私をどう見ているのかわかってしまって……。
「私の愛妾になりなさい」
「――!」
「そうすれば助けてあげよう」
彼はニヤリと笑う。
気持ちが悪い。
これまで申し訳ないと思っていたけど、間違いじゃなかった。
彼の私を見る目は……親が子を愛でるものでも、可哀そうな子供を憐れむ眼でもない。
ただただ、嘗め回すような視線は……。
「……そういう……ことなんですね」
「ん? どうかしたかな?」
やっぱり親子だ。
息子が女たらしなら、父親も変わらない。
噂はあったんだ。
アイスバーグ公爵は、若い女性を屋敷に招き入れて逢瀬していると。
信じたくはなかったけど、事実らしい。
奥さんが早くに亡くなられたことをいいことに、立場を利用して遊びまくっている。
父親も息子も、最低な一家だ。
そんな人たちに支えられなきゃ生きられない自分が……どうしようもなく恥ずかしい。
何より……。
「さぁどうする? ここで決めてくれなきゃ困るなぁ」
こんな男でも、縋るしかない自分の弱さが腹立たしい。
心から嫌だ。
婚約者どころか愛妾なんて……でも、条件を呑まないと全部取り上げられてしまう。
数年間の努力も、失うのは一瞬だ。
「わ、私は……」
「ほら、どうした? 答えは決まっているだろう?」
「……は――」
カランカラン。
お店のベルが鳴り、一人の青年が速足で入店する。
そのまままっすぐ私の元へ。
間に割って入り、大きな布袋をカウンターに置く。
「な、なんだお前は!」
「――これだけあれば十分か?」
「何を……! こ、これは……」
「レン君?」
どさっとおかれた布袋の中には、大量の硬貨が入っていた。
全て最も価値の高い金硬貨だ。
数えるまでもなく、私がこれまで借りてきたお金を遥かに上回る。
様々な疑問が頭に浮かぶ。
どうして彼がこんな大金を持っていたのか。
わざわざ今、このタイミングで見せたのか。
私以上に驚く公爵様に、レン君は言う。
「この金で、彼女と彼女の屋敷、この店も買い取らせてもらう」
「え――」
「ば、馬鹿な! 正気か?」
「足らないか? だったら足してもいいが」
「そ、そうではない! こんな大金……お前は何者だ!」
公爵様が叫ぶ。
私も気になっていたことだ。
レン君が何者で、どうしてここまで……。
「やれやれ」
彼は小さくため息をこぼし、顔を隠していたフードを脱ぎ捨てる。
「後悔するなよ」
「なっ……」
「――!」
一目見ただけで、私たちは理解した。
おそらく王都で暮らす人間なら、誰もが知っている顔だ。
銀色の髪に透き通る青い瞳。
この国で最も偉い一族。
「レイン殿下!」
ザリッツ王国第二王子、レイン・マーベット。
私が気安く話していた彼は、貴族であっても軽々しく話しかけられない至高の相手だった。
これまでと違う意味でぞっとする。
と同時に、更なる疑問が浮かぶ。
「な、なぜ殿下がこんな店に……?」
「いろいろあってな。この店が気に入ってるんだ。だから買い取らせてもらう」
「突然そんなことを……困りますぞ、殿下」
「何が困る? ついさっき手放そうとしていた癖に。そもそも、この店の所有権は彼女にある。屋敷もそうだ。記録上はまだ彼女の持ち物になっているぞ」
「え……」
そうだったの?
公爵様の話では、国に回収される前に買い取ってアイスバーグ家保有になっていると。
私は公爵様の顔を見る。
彼はバツが悪そうに目を逸らしていた。
「どういうことですか?」
「記録上、屋敷は手放す必要がなかったんだよ。他を手放し売却した時点で、多方面への支払いは終わっていた」
「そんな……騙していたんですか?」
「ひ、人聞きの悪いことを! 私はちゃんと君を助けるために」
「記録は正確だ」
レン君、ではなくレイン殿下は力強く言い放つ。
「他人の所有物を勝手に奪うことはできない。金を返した時点で、この契約は終わりだ」
「っ……なぜ、こんなことを……」
「言っただろう? 俺はこの店が気に入ってるんだ。それに……」
レイン殿下は私を見る。
初めて見せてくれたその表情は、とても綺麗で見入ってしまうほど……。
「俺は頑張っている奴が好きなんだよ」
格好良かった。
「わ、わかりました。お金は確かに受け取りましたので……」
「ああ、くれぐれも落とすなよ」
レイン殿下からお金を受け取った公爵様は、悔しそうな顔で私を見る。
私はホッとする。
これで愛妾にならなくて済んだ。
レン君……殿下のおかげで。
「あ、あの……」
「勘違いするなよ? 別に、情が湧いて助けたわけじゃない。あーいや、それもあるんだが、俺も王子の立場だからな。意味のないことはしない」
「意味の……あるんですか?」
こんな貧乏令嬢を助けて、彼に利があるとは思えなかった。
けれどもし、そんなものがあるのなら……。
「アイリス、君には直属の部下として宮廷に入ってもらう」
「宮廷に?」
「ああ。君の優秀さは長い付き合いでよく知ってる。どうか俺に、君の力を貸してほしい」
殿下が私に手を差し伸べる。
抽象的な勧誘で、殿下の真意まではわからない。
それでもいいと思った。
殿下なら、この人なら……信じてもいい。
信じたいと思える。
「はい! 私でよければ、恩返しをさせてください!」
この手を取るのに、迷いはなかった。