57 リゼ、やる気を出す
アニエスはリゼを彼女のアトリエまで連れていって、しばらく休ませた。
余計なことをしたという罪悪感で、胸がちくちくする。
「ディオール様、怒ってましたね……」
「そうね、私が余計なことを言ったからだわ。ごめんなさい」
「い、いえ、そうじゃなくて、わたしがちゃんと言えなかったのが悪いっていうか……」
リゼはとても傷ついて、悲しそうにしている。
――……私は何の娘なんだったかしら?
弁護士の娘だなんて、聞いて呆れる。
依頼人が言葉にできない思いも弁護してやれないで、何が弁護士なのか。
アニエスははーっとため息をついた。知らず知らずのうちに、ストレスで爆発しそうになっていた。
――どうして私、こんなにドロドロした感情を持て余しているのかしら。
理由はなんとなく分かっている。
でも、気づきたくなかった。
アニエスはうらやましかったのだ。
あの男が。
リゼに好かれて、機嫌を伺われているくせに、不機嫌そうな顔で素知らぬふりをしているあの男が。
大好きな友達を取られたようで、悔しかったのだ。
だから、つい、ちくりと言ってやりたくなった。
――それで友達を泣かせていたら意味ないわね。
アニエスは冷静になることにした。
「リゼは、あの男に感謝を伝えたいのよね? これまでにいろんな形でお恵みを施してもらったから」
「! ……は、はい。そうです」
「その手段として、お金を返すのが一番いいと思っただけで、もしも伝えられる手段があるのなら、他の方法でも構わない……そういうことよね?」
「そうなんですけど、わたしには、返せるものなんて、あんまりなくて……」
「彼は大貴族だから、お金にさほどの価値を感じないのかもしれないわ。だったら、何か別の形で受け取ってほしいと言うのでどうかしら? できれば、この金額と同じ程度の価値のあるものを、と。リゼは魔道具師なのだから、同程度の金額の品物を作ってあげる、というのでどう?」
「は……はい。それでもいいです……!」
リゼがキラキラした目を取り戻した。
この子は目を輝かせているときが一番かわいい、と思う。
「分かったわ。今度は怒らせないようにうまく言うから、もう一度挑戦してみましょう」
「ありがとうございます……!」
お礼を言われると、心苦しい。
公爵をわざと怒らせたという自覚があるアニエスは、次はもう失敗できないな、と思った。
***
ディオール様のところに戻ると、アニエスさんは開口一番にすまなそうな口調になった。
「ごめんなさい、私の勘違いだったみたい。『好きでもない男』って発言は取り消すわ」
ディオール様は不機嫌そうにアニエスさんを見ている。
「リゼはあなたと何らかの形で交流がしたいのよ。一方的にもらうばかりでなく、お互いにやり取りをするような関係が理想なの。なのにあなたときたら、いっこうに欲しいものを言わないから、困っているのよ」
「たまには飯でも奢ってくれればいいと言ってあっただろうが」
「それでは全然返しきれないのよ。リゼはあなたに食事をちょっと奢る程度では納得できないくらいの恩を感じているの。もっともっと大きなことをして、喜ばせてあげたいと思っているのよ」
アニエスさんがわたしの気持ちをきれいに代弁してくれた。
感動していたら、アニエスさんがわたしを見てちょっと微笑んだ。
「そうよね?」
「はい」
うなずくわたしを、ディオール様がつまらなさそうに見返してくる。
「あなたはどうなの?」
アニエスさんがディオール様に向かって身を乗り出した。
「好意だって一方的に押しつけたら迷惑になるわ。想像してみればいいのよ、あなたが見知らぬ誰かに毎日高額な贈り物を送りつけられ続けるところを。あなたが彼女に好意を押しつけようとするのはなぜ? 納得のいく説明を求めるわ」
ディオール様はとても面倒くさそうだった。
「……私が彼女の婚約者だからではダメなのか?」
「そう、婚約者よ。でも偽装のね」
「偽装であろうと体面は取り繕うだろう。妻の借金は私の借金だ」
一刀両断。
ディオール様は手ごわいなぁ。
アニエスさんはちょっと困ったように眉尻を下げた。
「だから、なぜ? あなたはただ借金を返すだけじゃなくて、彼女の財産をほとんど買い戻したでしょう?そこまでする必要はあったの?」
「……いいだろう。たまたま気が向いたんだ」
「その、たまたまをもう少し詳しく。リゼが納得する説明をしてあげてほしいのよ。もらうばかりではリゼの心理的な負担が大きい――そして、リゼはあなたともっと積極的に交流したい。この二点はご理解いただけたのでしょう?」
「……」
「あなたがリゼにしてほしいことは何? 具体的に、この金額に釣り合う形で提示してちょうだい。もしくは、パトロンとして、彼女の実力にふさわしい作品を作らせて、受け取るべきね」
ディオール様が不愛想に答える。
「何もいらん。返さなければ、などと気負う必要は全くない」
「なら、精神的なものでもいいわ。あなたにとって、リゼとの婚約は精神的な価値のあるものなの? それとも、ないものなの?」
ん? どういうこと?
アニエスさんは、話の流れが分かっていないわたしの前で、
「この際、リゼが好きだから、見返りに結婚しろとでもはっきり言ってあげた方が気楽になると思うの」
と、とんでもないことを言い出した。
え? ……え?
言うわけないじゃない、ディオール様が、そんなこと!!
「……なぜお前にそこまで詮索されないとならん」
案の定、ディオール様はまた怒った。
なにこれ、どうしたらいいの?
混乱しているわたしに、ディオール様は無理やりというか、ヤケクソ気味の笑顔を作った。
あ、この笑顔、見覚えある。恋人の演技するときのやつ。
「ではパトロンとして命じる。私がリゼに投資した金額に見合うような発明品を持ってこい。期間は問わない。一生かけてもいいから何か作って持ってくるんだ」
わたしは一も二もなくうなずいた。
他にどうしようもなかった。
これ以上話を長引かせたら、きっとディオール様は本格的に怒ってしまう。
「わ――分かりました!」
「それと、勘違いしてもらっては困る。私に好意を押しつける意図などはない。私は君らが思うよりはるかに長期的なスパンで投資しているんだ。リゼの腕なら、いつか必ずこれ以上の利益を生み出せるようになると踏んだから、高く買わせてもらった。だから、焦って小金を返そうだとか、くだらないことは考えなくていい」
ディオール様はそこで少しだけ、口調を柔らかくした。
「私は、リゼがいつか伝説級の魔道具師に上り詰めるところを見たい。何年後でもいいんだ。それまでは、リゼが健康に魔道具師を続けてくれる姿を見せてくれるだけで十分だ」
やさしい言葉は、わたしの想像していた通りだった。
ディオール様って、こういう人だよね。
本当にすごくいい人なんだ。
改めてディオール様の優しさに触れて、わたしはあったかい気持ちになった。
応援してくれる人がいるって、すごく嬉しいことだよね。
「わたし、がんばります……!」
感動しているわたしをよそに、ディオール様がアニエスさんに冷ややかな目を向ける。
「それで? どこに一筆書けばいい? 何度も話を蒸し返されて面倒だ。終わらせてくれ」
「では――」
「待ってください、分かりましたから、もう蒸し返さないって約束しますから!」
こんなよく分かんないことに他の人を巻き込んで大騒ぎしたくない。
証書を発行する人だって「ナニコレ」って思うに決まってるよ!
わたしが必死に止めたので、このお話はおしまいになったのだった。
***
ロスピタリエ公爵が帰ったあと。
アニエスはお茶の席の片づけをしながら、ぽつりとつぶやいた。
「あれでよかったのかしら……」
「よかったですよ!」
そばにいたリゼが弾かれたように反応した。
「そう? 何も解決していないような……」
アニエスはあの場で、ディオールに誘導をかけようとしていた。
でも、失敗した。
本当は告白まで持って行かせようと思ったのだが、なかなか難しかった。
アニエスから見たディオールは、ふしだらな男だというイメージが強い。初対面でリゼとの夜の生活をやたらと匂わせられたからだ。『誤解だ』とリゼは言っていたが。
あんな恥知らずなでたらめを吹聴するほど神経が太いのなら、リゼの微妙な気持ちも汲み取ってくれて、「かわいいリゼが婚約してくれただけで満足で、すでに元は取れている」くらいは言うかと思っていたのに。
たぶん、その方がリゼも喜んだだろう。
アニエスの見立てでは、リゼはディオールのことが好きだということになっていた。
だって、彼女は何十枚もスケッチを描き貯めているのだ。
よほど好きでなければそんなことはしないだろう、という思い込みがアニエスにはあった。
リゼは何にも考えてなさそうな笑顔で、えへへと笑う。
「ディオール様にたくさん応援してもらえてうれしかったです! がんばって働こうって思いました!」
あ、そういう判定なの、と、アニエスは思った。
案外リゼも、自分の感情の正体がよく分かっていない、というやつなのかもしれない。
――それなら、私が強引にはっきりさせるのも野暮というものよね。
人の恋心は勝手に周囲が暴露していいものではないし、決めつけていいものでもない。
周りから見てそうなのではないかと思えても、当人が違うというのなら違うのだ。
「やっぱりアニエスさんはすごいですね! いろいろともやもやしていたことがすっきりしました!」
「そ、そう……」
私としては余計にモヤモヤしたのだけれど、と彼女は思う。
しかし本人が、このふんわりとした状態で満足だと言うのなら、それ以上他人がとやかく言うこともないだろう。
「ディオール様への借金についてはもう悩まないことにしますね。手伝ってくれてありがとうございました」
リゼがこの問題について考えるのはやめると宣言したので、借金問題はなんとなく解決をみたのだった。




