54 あの日の真相は藪の中
「お店の権利書に付随する項目よ。このお店、店主とその血族に売却時の『優先買戻し権』がついているの」
「優先。……?」
「持ち主が、お金に困ってお店の権利を売ってしまっても、あとで優先的に買い戻せますよっていう権利。ひらたく言うと貴族特権ね。貴族の土地はほぼすべてこうなっているのよ。土地の支配者は、貴族でないとならないから」
「へ……へえ~~~……!!」
アニエスさんは色んなことを知ってるなぁ。
感心するわたしに、アニエスさんがもっと教えてくれる。
「つまりね、あなたの婚約者がこれを慌てて競り落とす必要はなかったのよね。だって、リゼに優先権がついてるのだもの。なるべく値段が高くならないように、静観するのがベストだったのよ。それなのに、安易に競売に参加したから、値段も吊り上がってしまった」
そういえば、とわたしは思い出す。
ディオール様、前に『むきになって競り落とした』みたいなこと言ってた気がする。
……ディオール様って無表情だから分かりにくいけど、実は短気だよね。よく誰かと喧嘩してるところを見かける気がする。
「それだけじゃないわ、各種の特許権も、想定される利益以上の金額で無理やり買い戻している」
「えーっと……特許権は……売ったり買ったりできるものなんですか?」
「そうよ、個人の財産だもの。知的財産とも言うわね。破産したのなら、取り上げられるわ。旧リヴィエール商会が潰れたときに、まとめて競売にかけられたのね」
そろそろアニエスさんが何を言ってるのかよく分からなくなってきた。
「えーと、つまり……?」
「あなたの婚約者は、採算度外視で、金にモノを言わせてほとんどの権利を取り戻したの。そんなに高値で買い戻しても、モトが取れないだろうって金額でね。なぜなのかしら? どうしてもリゼのものを取り戻してあげたかった……というのはちょっとできすぎね」
「ディオール様ならやりそう……!」
わたしが感動している横で、アニエスさんが醒めた目をしている。
「普通じゃないわ。彼、よほどリゼのことが好きなのかしら? もうかわいくってたまらないものだから、なくしたものも全部取り戻してあげたいと思うくらいヒートアップしてしまった――とでも言われた方がまだ納得できるわよ」
「わたしにそんな価値ありませんって」
あはは、と笑い飛ばしたけれど、アニエスさんは納得していないようだった。
「わたしは全然不思議じゃないと思います。ディオール様は、ちょっと普通じゃないくらい、いい人なんですよ……!」
ああいう人が将来聖人って言われて祀られるのかもしれないなって、わたしは思った。
「……そう。リゼがそう思っているのなら、それでいいけれど……私はあまり信用しすぎない方がいいように思うわ。だってあなた……」
アニエスさんが頬を染めて言う。
「いやらしいこともされているのでしょう?」
「されてません!!!!」
わたしは誤解が解けるまで、必死に内実を暴露した。
そっかー、アニエスさん、ディオール様に厳しいなって思ってたら、そこですごい誤解が生じてたんだなぁ……
「……ほんとう? 何にもないのね?」
「ないです!!!!」
わたしの必死な弁明のかいもあって、半信半疑だったアニエスさんも、最後には信用してくれた。
「……でも、心配だわ。リゼは素直すぎるから……」
アニエスさんのやさしさがしみる。
わたしとしてはディオール様のことあんまり嫌わないでほしかったけど、最初にディオール様がアニエスさんのこと嘘の言動で試しちゃったから、アニエスさんが厳しくなるのも分かる。この件に関してはディオール様が悪いと思う。
そのうち分かってもらえればいいかなと、わたしは考え直して、ひとまずディオール様に作った借金額の調査は終わったのだった。
***
アニエスは微妙に面白くない気持ちを持て余しながらその日の事務処理を消化していた。
原因はリゼの婚約者だとかいう男だ。
初対面では、ずいぶんふざけた男のように見えた。
見た目は女が夢中になりそうなほど整っているが、美点と呼べそうなのはそのくらいで、とにかくリゼに対する態度がひどすぎた。
アニエスは一人娘として父親にも溺愛されていて、自宅や職場に出入りする見習い書生たちからも『機嫌を損ねたらまずい』と、下へも置かない扱いを受けていた。なので、無礼を働く男は身近に一人しかいなかった。それが菓子屋のジャックだ。
そのアニエスからすれば、あんな男が『いい人』などと呼ばれてリゼに好かれているのは、まったく許容できないことだった。
リゼにはもっといい男がいるのではないかと思ってしまう。
――モヤモヤするわ。
なぜかは知らず、アニエスは対抗意識のようなものを燃やしていた。
あんな失礼な男よりも、アニエスの方がよっぽどリゼに優しくしてあげられるのに。
ちっとも捗らない作業を中止して、アニエスはリゼの様子を窺いにいくことにした。
――紅茶でも持っていってあげましょう。
お茶のセットをお盆に乗せてリゼの部屋を訪ねる。
リゼは熱心にかきものをしていた。
「何を書いているの?」
顔をあげたリゼが、ふにゃっとした笑顔になる。
「昨日のディオール様、かっこよかったので絵にして残しておこうと思いまして」
「絵!?」
斬新な発想に、アニエスが驚いていると、リゼはもっと絵を見せてくれた。
横顔が多いだろうか。真横、斜め、遠くを見ている姿、ともかくも点数が多く、何ページも埋め尽くされている。
――まあ、見た目はいい男だったわね。
あれは惑わされるのも仕方ない……と思い、流そうとしたが、それにしてはちょっと点数が多すぎた。
「……ず、ずいぶん描き貯めてあるのね」
「はい! 素敵な人の肖像画は一瞬のものですから」
これは昨日今日ちょっと落書きしてみたという数ではない。
どうも、ほぼ毎日、熱心に観察して描き残しているようだ。
――……こんなにたくさん絵を残すほど好きなのかしら?
好きな男の絵姿を残しておきたいと思う女の子がこの世に何人くらいいるのか知らないが、ともかくもリゼの絵はとても上手だった。
「あなた、上手ね」
「まだまだですよ!」
「……リゼはあの男が好きなの?」
「はい! とってもきれいな顔なので参考になります!」
「参考……?」
「カメオのデザインに困ったときとかに、使わせてもらおうかなって!」
「なるほど……」
「アニエスさんも黒髪の美人をって言われたときのためにちょっとスケッチ貯めてます!」
彼女はとんでもないことを言って、スケッチを見せてくれた。
自分が思っているのの十倍ぐらい美しく、気高そうな顔つきで描かれている。
「……これは私ではないでしょう」
「えっ、そうですか? けっこうそっくりに描けたと思ってるんですけど……」
リゼは鉛筆を立てて、アニエスを透かし見た。
「わたしから見たアニエスさんがこうってことなので、本人から見るとちょっとまた違って見えるのかもしれませんね」
「……っ」
彼女から見たアニエスは、こんなに美人だということだろうか。
なんだか赤面する思いだった。
「綺麗なものは普段からスケッチして貯めておくと仕事が楽になるんですよねぇ」
リゼは天然なのか、無邪気にそう言って、またスケッチに戻った。
ふと脇に目を転じれば、机の横に無数のスケッチブックが積み重なっている。
――この全部があの男……ではないにしろ、相当な枚数描いているのね。
これではっきりした。
リゼはあの男のことをかなり好意的に捉えている。
ならば、二人の関係も、外野のアニエスがとやかく口を出すことではないのだろう。
そうと分かってもなおモヤモヤとする感情の正体を、アニエスは測りかねていた。




