51 S気味公爵とS気味令嬢の出会い
「ないですね」
わたしは曇りなきまなこでそう答えた。
ディオール様のおうちの暮らしに困りごとなんてあるわけない。わたしがちょっと喉渇いただけでもすぐに飲み物を用意してくれるんだよ。『困ったなー』って思う前に、『困』くらいで全部解決されちゃう。
「もう最高です」
ディオール様は納得してくれなかった。
「本当か? たとえばほら――フェリルスが、昨日もリゼに何かねだったようなんだが」
「あ、チキンですか? あれは約束してたんですよ! コーヒーブースの協力お礼です」
ディオール様は浮かない顔をしている。
なんだろ?
「先日は添い寝をさせられたとかいう話も聞いた。迷惑では」
「全然! フェリルスさんすごいおりこうさんなんですよ! ちゃんとおててもあんよもきれいに洗ってからベッドに入るんです! しかも自主的にですよ!? こんなにかしこいわんちゃん他にいませんよねぇ」
ディオール様は淡々と表情を変えずに「わんちゃん」とつぶやいた。
「……そうだよな。あいつは犬だ。ピエールのやつは何を考えていたんだか」
ディオール様がどこかホッとしたような笑みを漏らす。
「犬は犬だが、やはりあいつも一応は知性体だからな。あまり舐められたくないところを舐め回されて困ってる……とかいうことはないか?」
「えっ……顔とかですか? 確かに、お化粧してるときとか、劇薬を使ったあととかは危ないかもしれないので心配にはなりますが、嫌というほどでは……」
「魔道具づくりには劇薬も使うのか」
「はい、わんちゃんの口に入ったら危ないものもいっぱいあると思います」
「それは心配だな。控えるように言っておこう」
「お、怒らないであげてくださいね……」
わたしはちょっと迷ったけれど、フェリルスさんのことを考えて、秘密を暴露してしまうことにした。
「わたしにディオール様を取られてしまったみたいで、寂しいんだと思います。『最近のご主人はちっともベッドに呼んでくれない』ってすねてましたもん」
「フェリルスがそんなことを言ったのか」
「はい。だから、あんまり厳しくしないであげてください」
おっきなお耳を下げて、眉(?)も下げて、キュオンキュオンとあとを引く鳴き声を出しているフェリルスさんを思い出す。
「フェリルスさん、ディオール様のこと大好きなんですね! いつも憧れのヒーローみたいに自慢してますよ!」
ディオール様もフェリルスさんのことを思い出しているのか、とても優しい顔つきをしていた。
しばらく無言の食事が続く。
ディオール様はわたしに視線を戻して、笑顔を見せてくれた。
「安心した。リゼが迷惑でないというのなら、あいつを構ってやってくれ。憎めないやつなんだ」
「はい!」
ディオール様もフェリルスさんのこと大好きなんだなぁって思ったら、わたしもつられてにこにこしてしまった。
――カランカラン、と、来客を告げるベルが鳴ったのは、そのときだった。
ドアから入ってきたアニエスさんは、目を丸くして、足を止めた。
「あら、お客さま? ごきげんよう、初めましてかしら?」
アニエスさんが貴族式のお辞儀を披露した、その瞬間――
ディオール様はすばやくわたしの隣に座った。
「見ない顔だな。リゼの友達か?」
と、満面の笑顔のディオール様。
同時に手に指を絡めて握ってこられて、わたしはちょっとビクリとし、反応が遅れた。
「私はこの店の従業員ですけれど……失礼ですが、どちら様?」
アニエスさんの目が怖い。
「うちのリゼが何か無礼を働いたのならお詫びいたしますが――どうやら困っているようなので、お手を離していただけませんこと?」
そこでわたしもようやくハッとした。
そうか、アニエスさん、ディオール様のこと全然知らないんだ。
お店に来たらわたしが変な人に絡まれてるみたいに見えたってことなのかな。
……確かにこんなに人前でベタベタしてくる男の人、ちょっと異様には見えるよね。
「アニエスさん、この人わたしの――」
「従業員? 雇ったのか? 私にひと言の相談もなく?」
ディオール様が不機嫌に割り込んできた。
今度はディオール様の目が怖い。
えっ、なんで?
なんでディオール様が怒るの? 分かんない。
あと、くっつかれてる理由も分かんない。
頭を疑問符だらけにしていたら、アニエスさんの目つきがさらに怖くなった。はっきり敵意を浮かべている。
「ねえ、リゼ、この方、お店の経営に関わっていらっしゃるの? 確か、ここはリゼの単独経営だったと思うのだけれど?」
言外に、『何様か』とはっきり言ってしまっている。
そしてディオール様も、嫌味を感じ取って臨戦態勢に。
「やはり先に私に相談すべきだったな。こんな態度の悪い従業員は店の品位を落としかねん。リゼのことを一番に思っているのは私なのだから、今後はもっと頼るように」
「え、えっと……」
なにこれ、どうしたらいいんだろう。
「と、とりあえず、紹介しますね。アニエスさん、この人わたしの婚約者で、ロスピタリエ公爵のディオール様です」
「まあ、そうでしたの? 申し訳ありません、リゼに婚約者がいたなんて存じ上げもせず」
「それでディオール様、アニエスさんは……魔法学園の四年生だそうです。お父様が弁護士をやってらっしゃるって」
「元リアージュ高等法院長、ディアマン男爵が娘、アニエスでございます」
ディオール様が口をわたしの耳元に寄せて、ひそひそと聞く。
「……騎士団の関係者じゃないよな?」
「と、思います」
「なら問題はないか……?」
もしかして、ハニートラップを警戒してるのかな?
ディオール様も大変だなぁ。
「アニエスさんは、大丈夫だと思いますよ」
「いや、しかし、油断せずにいこう」
ディオール様は、急に片手でわたしの髪の毛をもてあそび始めた。恋人がよくやるやつ。
相変わらずディオール様の恋人演技は極端だ。
「そういえばリゼは、書類を片づけてくれる従業員が欲しいと言っていたな。雇っていたのなら、そう教えてくれればよかったものを。毎晩一緒なのだから時間はあっただろう?」
毎晩(夕飯が)一緒とかですよね、分かります、とわたしはひそかに心の中で相槌を打った。
アニエスさんの眉がぴくりと跳ねる。
「失礼ですが、ご結婚は――」
「まだだが、婚約しているのだから、問題はあるまい? なあ、リゼ」
わたしに同意を求めないでください。
アニエスさんが『あれあれ? こいつ、女の敵かな?』みたいな顔になってるよ!
「ねえリゼ、本当にこの方が婚約者なの?」
「え……? ええ、まあ……」
「自分で選んだの? それともどこからか無理やり押し付けられた?」
あれ、どんな設定だったっけ。恋愛結婚だったっけ?
ぼやっとしていたら、アニエスさんがいたわしそうな口調になった。
「この方、まー大層な美形でいらっしゃるけれど、リゼの名誉にかかわるようなプライベートなことを、さも自分の手柄かのように自慢げに吹聴するなんて、ちょっと人としての良識を疑うわ。もしもこの男のせいで悩んでいることがあれば、わたくしと、父が力になるわよ?」
ひ……ひええ、不敬!
わたしがガタガタ震えていると、ディオール様は――




