50 リゼ、職場訪問される
ピエールはロスピタリエ公爵邸で主人の従者をしている。
基本的に主人の身の回りの雑用は何でもするが、だからといってプライドがないわけではなく、したくない仕事というのも当然ある。
彼の中で、精霊・フェリルスの起こした珍騒動の尻拭いは、特にやりたくない仕事のひとつになっていた。
「ディオール様も少しはフェリルスに厳しく言ってやってくださいませ! あのバカ犬、リゼ様を危険な目に遭わせたばかりだというのに、ちっとも反省した様子が見受けられないのでございます!」
休日に、自室でのんびりと読書をしている主人に向かい、ピエールは苦情を訴えた。
彼はちらりと目だけ動かしてピエールを見ると、興味なさそうにまた本へと視線を戻した。
「ずいぶん鳴いていただろう。きっと反省した」
「フリだけでございますよ、あんなもの! ディオール様はフェリルスに甘すぎます! もっと厳しく躾けませんと!」
「あいつは言っても聞かん」
「ええ、『精霊だから』と、そうおっしゃるのでございましょう? いつもそうやってディオール様が甘やかすから、バカ犬がつけあがるのでございます!」
主人はピエールの苦情を話半分で聞き流し、ぺらりとページをめくる。
「仕方がない。可愛いだろう、フェリルスは」
「あの犬にかわいげなどございません! だいたいあの犬は、昨日の夕飯を半分も残したのですよ! ただでさえ洒落にならないほどの食費がかかっているというのに、二キロもの肉を無駄にして! 聞けば、お昼にリゼ様からチキンをご馳走になったと言うではありませんか!」
「リゼがあげたかったのならしょうがない」
「それは……リゼ様がお望みだったのであれば仕方がないとは存じますが……!」
主人は声を立てずに、少し唇の端を曲げて、笑った。
「そう言うお前も、リゼには甘いじゃないか」
「僕は私情で誰かを甘やかしたりなどいたしません! 仕事でございます!」
「そうか? まあいいが」
ピエールはなんとなく笑われているのを感じて、怒りに水を差された気分になった。
声を荒げてフェリルスを責めたてるのをやめる代わりに、チクリと主人に嫌味を言っておくことにする。
「それにしても、よろしいのですか、ディオール様? あの犬、放置しておくと、リゼ様の『はじめて』をすべて奪っていくかもしれませんよ」
さすがの主人も、少し本から目を上げた。
「……何を言っている?」
「あの犬、先日、リゼ様のベッドで添い寝してもらったそうでございますよ」
主人が目を瞬かせる。
彼は相当に戸惑っているようだった。
「……犬だろう?」
「犬でございます。犬でございますので、ときおり顔をべろべろと舐め回しているのも見かけます。あの様子だとキスも済んでおりますね」
「いや、だから、犬なりの愛情表現だろう?」
「そして昨日は手料理までご馳走になっておりました。ディオール様は、リゼ様の手料理を召し上がったことがございますか?」
「いや、私は別に……手料理に特別の価値など感じはしないが……」
「しかしあの駄犬も、人語を解し、人間の文化を理解する精霊種でございます。精霊と人間との異類婚姻譚、ひとつもお聞きになったことがないとはおっしゃいませんよね?」
そこで初めてピエールの主人は、視線を思案げにテーブルにさまよわせた。
「しかし、あのフェリルスと、あのリゼだぞ……?」
「僕はただ、あの犬をのさばらせていいのかとお尋ね申し上げているのでございます。リゼ様はとても素直なお嬢様でいらっしゃいますから、ストレートに愛情表現をするフェリルスにはうっかりと絆されることも多々あることでございましょう」
ピエールの主人は、本にしおりを挟んだ。
「今日のリゼは?」
「研究の続きをするといってお店にお出かけになりました」
「分かった。ありがとう。少し出てくる」
ピエールはしてやったりという気分で、主人を見送った。
***
わたしはお店のアトリエで、悩んでいた。
アルベルト王子と約束した新型の魔糸、どうしようかなぁ。
いくつか候補はあるけど、一長一短だ。
まず、純粋な魔力を糸の形で【物質化】して、安定させるのに、ある程度ガッチリと硬く魔術式を組まないといけないんだけど、そうすると繊維がゴワゴワするんだよねえ。
絹のような滑らかさを出すのに、プロトタイプは火の魔術式の構造を真似たんだけど、似たようなことは他の属性でもできる。
水ならかなりいい感触の布ができるけど、構造の問題で、魔力を含んだ水に溶けてしまうので、極端な話、魔力持ちの人間の汗とかでも溶ける。これはさすがに服としてダメだよね。わたしが編んでる端からホロホロ崩れちゃう。
やっぱりここは土かなぁ。
とりあえず今日は、陶器に魔力を混ぜ込んで焼き上げてから、溶解させて糸に直してみようかなぁ。
ダメで元々、出来上がった素材の構造から何か新しいヒントがあれば儲けもの。
よーし。
わたしが粘土を練っていると、来客を示すドアベルがカランと鳴った。
「いらっしゃいませ――あれ、どうしたんですか?」
ディオール様が立っていた。
しかも、なんだか機嫌がよさそうで、ほのかに微笑んでいる。
珍しいこともあるものだなぁと思って見つめていたら、手土産を渡された。
この箱は……ケーキ!
「伸ばし伸ばしにしていたが、今日こそ君のアトリエを見せてもらおうと思ってな」
「どうぞどうぞ! いまコーヒー淹れますね!」
やー、お土産を持ってきてくれるなんて、さすがはディオール様だよね!
ディオール様はドライフルーツをたくさんまぶした可愛いピンクのカッサータと、洋酒づけのカリンを乗せたパイを持ってきてくれていた。
「どっちがディオール様のですか?」
「どちらもリゼのだ。私には少しずつ取り分けてくれればいい」
聖人かな……?
お菓子をくれる人に悪い人はいないと思うけど、ディオール様って突き抜けてる。
いつもおいしいお菓子は率先してわたしにくれるもんね。
いったいどんな人生を歩めばこんなにいい人ができあがるのかなぁ。不思議だなぁ。わたしなんて、頼まれても自分のお菓子は人にあげたくないよ。
わたしがティータイムの支度をしている間に、ディオール様はお店を見ずに、わたしの手元をじっと見ていた。
お店の展示品見ないのかな……?
自信作ばっかり並べてあるんだけど。
「ありがとう。うまいよ」
ディオール様がにこやかにお礼を言ってくれる。今日は機嫌がいいのか、いつもより表情が優しい。
「ところで、リゼ。少し聞きたいことがあるんだが」
ディオール様が突然そう切り出した。
「もしも答えにくければ、君につけているメイドに言ってくれてもいいんだが――最近、何か困っていることはないか?」
ディオール様が心底心配そうに言ってくれるので、わたしはぽかんとしてしまった。
はて。困っていること……?




