28 リゼ、開店準備をする
困ったことになってしまった。
わたしは出ていくべきだと思う。
実家に住んで、商売をしながら、ときどきディオール様に借金の一部を返す……いらないっていうかもしれないけど、ある程度の金額は返したい。姉にかかった医療費だって、結局ディオール様に負担してもらった。
でも――
すぐそばで刺繍をしていたクルミさんが、にこにこしながらその布を広げてみせた。
「最近王都で流行っているのは、こういう刺繍なのだそうでございます。きっとリゼ様にもお似合いになると思って、練習してみました。いかがでしょうか?」
「わ……っ、かわいい……っ!」
「お気に召していただけたのなら、次のドレスにはこれを。ちょうどとてもいい布を分けていただいたばかりなのでございます」
クルミさんはわたしのために、毎日いろんな髪型や服の流行を勉強して、試してくれる。
わたしが散らかしたものもいつの間にか片づけてくれている。
もうわたし、クルミさんがいないと生きていけないかもしれない……
クルミさんのお給料ってどのくらいなんだろう。
わたしに払える額かな?
でも、クルミさんみたいに有能な人は引っ張りだこだろうし、わたしのような庶民の家には来てくれないかもしれない。
そうだったらちょっとショックだなぁ。
うっすら涙ぐんでいたら、クルミさんがびっくりした。
「リゼ様!? いかがなさいました!?」
「わ……わたし、ここ、出て行かなきゃいけないかも……」
「な……なぜでございます!? まさかご主人様が余計なことを……!?」
「ううん、ディオール様は婚約を続けたらいいとは言ってくれたんです。でも、わたしが自立するまでの偽装婚約だったし、もうお父様やお母様はいないし……だから……婚約は、破棄しなくちゃ……」
すごく嫌だったんだなって、今更のように思う。
喋りながら、ようやく自分の気持ちに気づいた。
クルミさんはやさしくハンカチで涙をぬぐってくれた。
「ご主人様はとにかく女性嫌いなお方でございます。もしもリゼ様がご婚約を破棄なさったら、もう一生独身でございましょう。ご主人様をひとりぼっちになさるおつもりでございますか? それはあまりにも酷というもの……」
「で、でも……ディオール様のことが好きって女の子もいましたし……」
「それでも受け付けないから女性嫌いなのでございます。ご主人様が女の子にあれだけ優しく微笑みかけるのは、リゼ様にだけでございます」
「わたしは、珍獣だし……婚約するときにも、『お前を好きだなんて言った覚えはない』ってはっきり言われちゃったし……」
「ご主人様が?」
クルミさんは困ったようにしつつ、それでもわたしに反論する姿勢は崩さなかった。
「わたくしの口からはあまり無責任なことは申し上げられませんが、どうしてご主人様がリゼ様にだけ格別にお優しいのか、汲んでさしあげてくださいませ」
クルミさんが一生懸命励ましてくれたので、わたしの悲しい気持ちが軽くなった。
「……ありがとうございます、クルミさん」
クルミさんとにこにこ微笑み合う、この時間がなくなってしまうのだと思うと、わたしの気持ちはまた沈んだ。
***
わたしがお店の片づけをするときに、ピエールくんが助っ人に来てくれた。
「うわあ、ずいぶん荒れてますねえ」
どうやら両親が夜逃げしたあと、競売物件の執達吏に押し入られたみたいで、ドアは壊れてて中はぐちゃぐちゃだった。
祖母が作った宝石とか、価値のあるものは全部両親に持ち出されちゃったか、もしくは売られちゃってるみたいだけど、未加工の素材とか、仕事道具なんかは重くて持ち運びにくくてそんなに価値がなかったからなのか、だいたい手つかずで残っていた。
「こんなことまでさせちゃってすみません……」
「お謝りにならないでくださいませ! 本当はディオール様がいらっしゃりたかったようなのでございますが、どうやら非常にお忙しいご様子なので、ディオール様の分まで僕がしっかり働いてまいりますね」
にこにこと言ってくれるピエールくんもクルミさんと同じ天使族だった。
「ディオール様のお嘆きようはたいそう深かったのでございます。リゼ様のアトリエをぜひこの目で見てみたかったと」
「魔道具、お好きなんですねえ……」
「ええ、魔道具もお好きなのだと存じます」
「も?」
ピエールくんはうふふと笑って、それ以上は何も言わなかった。
「僕の仕事はディオール様の補佐でございますので、あまり余計なことを喋ると大目玉を頂戴してしまいます」
つまりピエールくんはディオール様のいいことしか喋らないってことだよね。従者の鑑だなあ。
ピエールくんはてきぱきと散乱するゴミを片づけ、壊れた家具類を処分してくれた。
「足りないものがあればおっしゃってくださいませ。ディオール様からすべて揃えるようにと仰せつかっております」
「いえ、ほんと、片付けしてもらっただけでもありがたいので!」
「しかし、食卓とベッドぐらいは最低きちんとしていないと、お暮らしになるのにもお困りでございましょう」
ピエールくんは家具屋さんを呼んできて、あれもこれもまとめて家具を注文してしまった。
「あああ……そこまでしていただかなくても……」
「お好みに合わないようでしたらまたお申し付けくださいませ。必ずやお気に召していただけるよう世界中から取り寄せてまいります」
「いいんですってば本当に……!」
わたしのディオール様への借金がふくれあがっていく。
どうやって返済しようかと途方に暮れていたら、ピエールくんがくすくす笑った。
「近頃のリゼ様はフェリルスの散歩係としても躍進めざましく、ボーナスを取らせたいとの仰せでございました。どうぞご遠慮なくお受け取り下さいませ」
「で、でも……散歩だけでこんなにしていただくのもぉ……」
「いえいえ、フェリルスの運動量はとんでもないですから、これで見合った報酬でございます。僕など、いくら積まれようとも朝晩何キロも散歩するのは御免こうむりたい次第でございまして」
わたしとフェリルスさんの散歩は日課としてまだ続いている。
朝晩一時間ずつなので、けっこうな運動量だ。
でも、逆に言うとそれだけなんだよね。
たったの二時間走り回っただけでこんなにもらえるなんて、気前がよすぎる……
「それでもご納得がいかないようでございましたら、ディオール様とのデート代も入っているとお考えいただけましたら」
「デッ……!?」
「パーティに同伴していただける女性を探すというのは、これでなかなか難しいものなのでございます」
あ、パーティね。姉の新作発表会とかに、一緒に行ったもんね。
「ディオール様は気難しいお方でいらっしゃいます。お相手はリゼ様にしか務まりません。どうかこれからも、偏屈なご主人様をよろしくお願いいたします」
ピエールくんにふかぶかと頭を下げられてしまって、わたしはなんとなくうやむやのうちに納得することになった。
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