219 リゼ、氷の公爵と相対す(1/3)
ディディエールさんに翻訳を手伝ってもらったあと、わたしはじっくり【魔術式】を眺めて過ごした。
規則性がある部分から読み解いた方が早い、というのはその通り。
じゃあどこから?
数式だよ……!
わたしがひとりで悩んでいても永遠に理解できない分野だ。
こればっかりはどうしようもない。分かる人の手を借りる以外ない。
……というわけで、わたしはとうとう、ディオール様とお話をする決心を固めた。
このまま逃げ回っていても仕方がない。
いつかはきちんとお話をしないといけなかったんだ。
わたしはディオール様のお部屋を訪ねた。
◇◇◇
顔を合わせて、目を見るのはものすごく勇気が要った。
もう二週間ほども意味もなく避けて過ごしていたのだ。
嫌われたのかも、呆れられたのかも……いろんな悪い想像ばかりが膨らんで、誰にも愛想を見せないディオール様が、とうとうわたしのことも他人みたいに見つめてくるんじゃないか、と思うと、すごく辛かった。
冷たく睨まれたりしたら、きっとわたしは耐えられない。
この人の氷みたいな目には、心なんて、簡単に串刺しにされてしまう。
ピエールくんがいないのか、ドアはディオール様が直接開けてくれた。
「君か」
ちらりと興味もなさそうにわたしを見下ろしてくるディオール様。
わたしはなんだかそれだけで、拒絶された気分になった。
「……? 入らないのか? 寒いんだが」
「……や、やっぱりいいです……!」
くるりと背を向けて、逃げようとした。
「待て!」
腕をはしっと掴まれ、わたしは半歩くらい後ろに引っ張られた。
「……!?」
ドアが目の前でバタンと強く閉じる。
引っ張り込まれてびっくりのわたしが、何をするのかとビビりまくってつい振り返ると、本当にすぐそばにディオール様が立っていた。
ついやってしまった、という顔で、
「……避けることはないだろうに」
と、なんだかちょっと情けない感じで、愚痴でもこぼすみたいにディオール様が言う。
「この間の話か? 気にしているんだろうが、私はどうも思っていないぞ」
「そ、そう、ですか……?」
じゃあどうして、わたしはこんな、ドアノブに手をかけたまんま、出られないよう封じてるディオール様と、真っ正面から会話しないといけないの?
「言ったろう? 別に君がどうあろうと、私は態度を変える気はないと」
その割に、ちょっと怖いのはどうして……?
かなりの至近距離で睨まれているわたしの緊張が、伝わっているのかどうか。
ディオール様は……怖いというか……たぶん、そう。
必死、だった。
「気に入らないことがあるならはっきり言えと強制したのが悪かったのか? なら別にそれもしなくていい。なんで真逆の行動をし始めるんだ? 私は君に、制限を課すつもりはないと言いたかったんだが、どう言えばよかったんだ?」
突然反省会をし始めた。
あ、これ。この感じ、分かる。分かってしまう。
すごく後悔してたんだ。それで、あのときああすればよかったとか、こうすればよかったとか、ひとりでいっぱい悩んじゃったんだ。わたしにもそういうの、よくあるから分かる。
「あの……」
なんでだろう。
ついさっきまで、ディオール様と目を合わせるのがあんなに怖かったのに、今は全然だ。
彫刻みたいなお顔をしているディオール様が、わたしより情けなく表情を崩しているのを見ていたら、気が抜けてしまった。
嫌われたのかと思って怖かったのは、わたしだけじゃなかった……?
「何か……ちゃんとしたお返事をしないと、って、思ったんですけど、わたしは馬鹿なので、何を言えばいいのか、よく分からなくて……」
「言わなくていい。何を言う気だか知らないが、何も強制していない」
ディオール様が必死に見えてしまって、わたしはつい、かわいい、と思ってしまった。
わたしの気分はそのまま顔に出ていたのか、ディオール様も、わたしに釣られたみたいに、少し顔つきが柔らかくなる。
「避けられる方が精神的に参るんだ。君はいつも通り、そのへんでぴょんぴょん跳ねててくれ」
変な子みたいに言われて、わたしは生ぬるい気持ちになった。
ディオール様の中のわたしのイメージ、やっぱり珍獣だよねぇ……
意地悪だなぁとは思う。でも、まだどことなく情けなさそうにしているディオール様がかわいかったので、嫌な気持ちは全然わいてこなかった。
「飛んだら喜んでくれますか?」
「まあな。いやいやだったらやってもらっても嬉しくないが」
「じゃあ飛びません」
「それでいい」
馬鹿みたいなやり取りだ。
でも、ディオール様はとても真剣だった。
「好き勝手に面白おかしく暮らしてくれ。それが一番喜ばしいよ」
今まで通りでいい。
わたしがどうあろうと、いつまでも一緒にいてくれると、現状を肯定し甘やかしてくれるディオール様に、わたしは胸がジンと痺れるのを感じた。
わたしが一番欲しかったのは、きっとこれなんだと思う。
ディオール様は本当に、無条件で、わたしの居場所を作ってくれるつもりでいるのだ。
「楽しそうにしている君を見ていたいんだ。嫌なことは何もしなくていい」
わたしに甘いディオール様が用意してくれる、快適に調えられたその場所の裏側に隠れているもの。そういうものは、まだ覗き込まなくていいと言ってくれている、のだと思う。
それがどれだけの好意と優しさでできているか分かるから、わたしはうれしくて、どうしようもなくなってしまった。
うずうずする気持ちを抑えきれずに、ディオール様に問う。
「ほんっとーに、好き勝手にしていいんですか?」
「ああ」
言いましたね?
わたしはそのとき、無敵だった。
なので、すぐそばに立っているディオール様にしがみついて、ぎゅ……とした。
ディオール様はフェリルスさんみたいに無邪気な生き物に弱い。
だからこういう風に迫れって、皆が口々に勧めてくれた。
そしてディオール様も、好きにしていいって言った。
だから何も問題ないはず……!
と思ったけど、最初の無敵感も、ものの十秒ぐらいですぐにしぼんでしまった。
や、やっぱりちょっと、恥ずかしい、ような……
「ど、どうですか?」
「いや、驚いているが」
ですよね、と、思っても、もう引っ込みがつかない。
「急になんだ?」
ディオール様は両手を肩の高さに掲げて、抱き合うような形は避けている。
「フェリルスさんの真似をすると喜ぶって言われたので」
「誰に」
「みんな言ってました」
「具体的には?」
「……聞いた人全員です」
そういえばクルミさんたちは使用人だから悪ふざけはすすめちゃダメって言ってた。
そのことを思い出してはぐらかすと、ディオール様は、
「君はもう少し分別があると思っていたが」
はあ~~~、って、過去で一番大きなため息を聞いた。
「素直なのはいいが、担がれないようにしろとあれほど言ったろうが。いいか? これはいろんな意味を持つから、むやみにするんじゃない。君の意図が正しく通じるとは限らん」
「そ、それは分かりますけどぉ……」
いくらなんでも変な風に取られるかもしれないことくらいはわたしにも分かる。だからよくないんじゃないかなぁって思ってたんだよ。
でもみんな勧めてきた。




