211 君が望まないうちは(1/2)
「今は難しい」
だから、ディオール様がやわらかい口調でそう言ってくれたとき、心の底からほっとした。
「で、ですよね?」
なんだ、焦ることなんてなかった。
これまで通りでいいって、ちゃんと認めてもらえた。
胸のつかえが取れて、落ち着き始めたわたしを見て、ディオール様は何を思ったのだろう。
形のいい瞳が、本心を測ろうとしてでもいるかのように、わたしをじっと見つめて、目を離そうとしない。
「君が、私に恋人扱いを望まないうちは、難しい」
ほとんど感情もなく、淡々と発せられた言葉に、わたしは何か、決定的に後ろめたいところを衝かれた気持ちで、肩がぎゅっと竦んだ。
ドキドキと、嫌な動悸がしてくる。
「わ、たしが……ですか? ディオール様が、ではなく?」
「そうだ。君だよ」
逃げ道をひとつ塞がれた。そんな気がした。
何から逃げたいのかも分からないまま。
「以前から、君が『恋人扱いなんて大それたことを』と何度も繰り返す理由を考えていたんだが」
そ、そんなに繰り返してたっけ?
でも、それなら原因はディオール様だ。
「それは、最初のときに、『勘違いするな』って」
最初に線を引いたのはディオール様で、わたしは引き下がっただけ。
「そのあと、改めてプロポーズした。二度ほど」
即座に痛いところを衝かれて、わたしは怯んだ。
――覚えている。
暗い広間の隅で、ろうそくを並べて、ふたりでひそひそお話した。あのときもちょうど今みたいに、小さい明かりに顔を寄せ合って、半身が橙色に染まったディオール様をすぐそばから見つめていた。反対側に長い長い影が伸びていたのも、はっきり記憶している。
ここはわたしの本当のおうちじゃない。頭では分かっていてもこらえきれなかった涙を拭ってくれて、わたしの意思を確認して、わたしを縛り付けないように細心の注意を払ってから、居場所を残してくれた。
嬉しかったし、幸せだった。
二度目は明るい青空の下だった。学園の綺麗に整えられたお庭で、ディオール様に意地悪されて、少しやり返そうと思ったら、すごい方向に話が転がってしまった。
わたしはなかったことにしたくて、あれこれ余計なことを喋った気がする。
……今までずっと、忘れたふりをしていた。
本当は忘れられるはずもないのに。
「……それは、もうちょっとだけ、婚約していてもいいって、ディオール様が言ってくれたから、勘違いしないように、って……」
「そうだ。君は二度とも、結婚を承諾するとは言わなかったな」
それは、ディオール様から、婚約を続けてもいいとは言われたけれど、それ以上のことは言われてないから……
……プロポーズは確かにされたけど……
悪ふざけの延長で、ディオール様は面白がっていただけだった。
好きだなんて言われてないし、わたしも言っていない。
「君は最初から一貫して、結婚したいとは一度も言っていない」
「だ、だからそれは、わたしじゃなくて、ディオール様が」
ディオール様は小さく首を振った。
わたしの下手くそな言い訳なんて通じてない、とでもいうように。
「結婚を望んでいるわけでもないのに、婚約を解消したいと言い出せない理由が君にはあったんだろう。おおかた、私との繋がりがなくなったら、追い出されると思っていたんじゃないか」
違う、と言いかけて、結局わたしは黙ることになった。
実際に、その通りだったかもしれないと気づき始めていたからだ。
「自分の居場所がなくなるのは怖いことだ」
わたしは、ピエールくんやクルミさんや、フェリルスさんと一緒のお屋敷がよかった。ピエールくんの天使みたいな笑顔や、クルミさんが用意してくれる温かなお茶や、元気いっぱいのフェリルスさんが大好きだった。あの中に入っていたいと、すごく思っていた。
婚約を解消しなければいけないとは口で言いつつ、本当に解消してしまっては縁が切れて、居場所がなくなることも、頭の隅でちゃんと意識していた。
「だから答えが『もう少しだけ婚約をしていたい』だったんだ。結婚したい、でも、私と一緒にいたい、でもない」
ディオール様はとりたてて、怒っている様子も、傷ついている様子もなかった。事実を無感動に並べているだけだから、声色も静かだ。
それでもわたしは、強い危機感をかきたてられて、なんとか言い訳をしようと、頭を巡らせる。
「わたしたちは、仮の、婚約だったはずで、ディオール様も、まだ言い寄ってくる女の子避けに婚約者が必要だって」
お互いにメリットがあるから。それだけのはず。
そのはずなのに、どうしてだろう?
強い口調で言い訳をすればするほど、確信が持てなくなっていく。
「だから、ディオール様の方こそ、わたしが必要だとは言ってなくて……」
……本当にそう?
ディオール様はときどき、ずっと未来の話をする。その日までわたしがおうちにいるものだと思っているみたいに、冬になったらかまくらを作ろう、だとか、いつかわたしがすごい魔道具師になるのが見たい、だとか……遠い未来の中に、当然のようにわたしを置いて話す。
必要でなかったら、そんなに先の話なんてしないはずなのに。
わたしはもう、ディオール様の目が見られなかった。
「この間、君に自分語りをせがまれたときもそうだったな。君は私に『優しくしろ』とはいうが、何をどういう風にするのかと聞かれると言葉に詰まっていた」
「だ、だって、難しいじゃないですか?」
「それに君はこうも言った。『フェリルスのようになってほしい』と」
「いえ、本気じゃないですよ!? 半分冗談で」
「しかし、半分は本気だった」
訳も分からず追い詰められている気分で、わたしは何も言い返せなくなった。
緊張のせいか、喉が渇いて声が出ない。
つばがうまく呑み込めなかった。
「君が本当に必要としているのは――婚約者ではなく、保護者だ」
「ち、違います、わたしじゃなくて、ディオール様が、わたしのことを、そういう風には見てないから」
わたしはそう言いながら、何度も頑なにその主張を繰り返してしまっていることに、ようやく自分でも気がついた。




