172 個人レッスン十回目 魔術式(3/4)
アニエスさんはしょうもないと思ったのか、くすくす笑っていた。かわいいと褒めてもらって、ちょっと元気が出る。
アニエスさんは落書き以外のノートの本文が目に入ったみたいで、少し目を丸くした。
「ユークリッド距離の算出……三次元? ずいぶん進んでるのね」
「ディオール様が、難しくないはずだからやれってぇ……」
「そう? かなり難しいと思うのだけれど……私がこの間習った軌道計算が水平方向Rの平面幾何学だもの。三次元は文字通り、次元が一つ違うわ」
「アニエスさんでも難しいんですか……!? テストで十二番のアニエスさんでも……!?」
天才のアニエスさんでも難しいなら……
わたしにできるわけなくない!?
「実は、ハーヴェイさんと一緒に九級の実技を教えてもらいたいんですけど、この【魔術式】の、標準問題? が解けるようになったらって言われてしまって……」
「それはもう、『教える気はない』ということよね」
やっぱりそうなんだぁ……そんな気はしてた。
「なんでそんな意地悪するんでしょうか?」
「そうねぇ……それは直接聞いてみるしかないわね」
「どうせ何も教えてくれないですよぉ……」
「プライド高そうだものね。可愛らしく聞いてみたら、チョロい気はするけれど」
最近ぽつぽつ可愛いって言うようになってきたけど、ディオール様がわたしを可愛いと思う基準って何だろう? それもよく分からない。
「油断してそうなときを狙って、こうして『実技のレッスンしてください』って上目遣い気味にお願いしたらチョロいとは思うのよね」
アニエスさんが対面に座るわたしの手を取って、ぎゅっと握る。
わたしは以前にアニエスさんの言うとおりにして酷い目に遭ったことを思い出して、つい疑わしい目で見てしまった。
「……アニエスさんの言うことは信じないですからね」
「あら、まだあのことを怒っているの? もうしないわよ、許してちょうだい」
「いやですぅぅ!」
わいわい話していたら、お店のドアがカランコロンと鳴った。
お客様かと思いきや、ハーヴェイさんだ。
「おや、今日は公爵閣下とご一緒でなくてよろしいのですか」
「お店もずっと空けておくわけにいかないので……でも、ちゃんと九級までには実技の訓練をしてもらえるように……」
わたしはチラリとノートを見て、意気消沈した。
……なれる気はしないんだよねぇ。
わたしが心を無にして書き写したノートの、最初の注意書きが目に入ったのか、ハーヴェイさんが不思議そうに読み上げる。
「『ただし象限は必要に応じ調整』……座標系でありますか。なるほど、これは難解です」
「わ、分かるんですか?」
「自分は魔術の才能がないと思っておりましたので、代替手段として【魔術式】を学んでいた時期がありました」
わたしの回りには天才しかいないのかな?
わたしがアホなだけ? なんかもうよく分からない。なーんにも分からない。
わたしのようなものが同じヒューマンの種族だと名乗ってもいいのかな……?
「やっぱりこれ、三次元の直交座標で、しかも逆三角関数も交えたかなり高度な弾道計算問題よね……? 最上級生の魔術師志望者向けの問題だと思うのだけれど……」
アニエスさんがハーヴェイさんの話を聞きつけて問うと、「同感であります」と、ハーヴェイさんもうなずいた。
「この式も初めて見たわ」
と、アニエスさんが、∇の記号を指指す。
「負の∇Φに【集中】法則を利用した、魔術の加速法……これ、そもそも何に使う【魔術式】なの? 加速するだけなら、単に威力を上げるだけでよくなくて?」
「あ、この模様、並べるとわんちゃんみたいだなって思ってたんですよ。ほらほら」
∇ΦΦ∇……と書き付けたら、アニエスさんはこらえきれなかったようにして笑ってくれた。
「もう、かわいいわね」
犬の落書きには目もくれず、ノートに書かれた矢印だらけの変な図(見たまま写した)を眺めていたハーヴェイさんが、ぽつりと感想を述べる。
「漏斗のような力場を作って……【集中】法則で、頂点に吸い込ませているように見えますが」
「水を注ぐときの漏斗? 勾配ベクトルの先端をターゲッティングして……まさか」
アニエスさんはぎょっとしたように顔を歪めた。
「【追尾】用の【魔術式】!? いやだわ、ここまで来ると戦闘特化のプロ用じゃないの……?」
すごく嫌そうに「陰険な男」と呟くアニエスさん。
わたしとハーヴェイさんは何とも言えなくて、聞こえなかったふりをした。
「しかし、確かに難しい設問ではありますが……これであれば、店主さんの魔道具の方が中身が複雑なのでは?」
心当たりがないので、わたしは≡とωを書き足して、お口を作っておいた。
∇ΦΦ∇
≡ω≡
右を向いてるわんちゃんを描いても、今度は誰にも笑ってもらえなかった。
「いえ、たいへん真面目な話、先日作っていただいた魔剣と、跳べるブーツは、三次元ベクトルのうちでも、かなり階級が高い行列処理が必須でありましょう。理解なしで作れるものではありません」
「……? 魔剣とかブーツは……【重量軽減】で作ってますけど」
重さを軽減させる【魔術式】自体は、そんなに難しくない。
いろんなものにかかっている。重たい木材とか、荷物とかはそうやって運ぶ。
わたしも特に何も考えずに使っていた。
「【重量軽減】とは、要するに重力gに対する反ベクトルの作用でありましょう」
「べく……?」
ハーヴェイさんは何か察したようだった。重々しい口調で「なるほど」と言う。
「【重量軽減】も無意識にやっておられたのでありますな」
「そうです!」
書くのが遅れに遅れた原因その二、勾配ベクトルの微分演算子∇。
「犬の耳みたいなやつ名前なんて言うんだろ? ネタにしたい……」
無邪気にそう思っただけなのです。
それが地獄の幕開けとも知らずに。
追尾術式は某沈黙の魔女オマージュ。