132 リゼ、知らん間に進む悪巧みには気づかずおいしいものを食べて一日を過ごす
ドミニク・プレフォンティーヌは誰もいない教室の隅で静かに涙を流していた。
手には『ギネヴィアの櫛』が握られている。
これはマルグリットに渡そうとした品だった。
なにも身に着けてほしかったのではない。単に、受け取ってくれるだけでよかった。ドミニクの忠誠の証だと思って、軽く喜んでみせてくれればよかったのだ。
マルグリットは受け取ろうとしなかった。
――それは、将来恋人ができたときに渡してさしあげて。わたくしは王女ですから、将来の醜聞につながりそうなものは一切受け取ることができませんの。どうぞわたくしの心中をお察しくださいましね。あなたのことが決して憎いわけではございませんのよ……
マルグリットが誰にでも分け隔てなく優しいことは知っていた。ドミニクにも親しい友人として振る舞ってくれるのも、その性格ゆえだということも。
誰にでも優しいけれども、誰も特別扱いはしない方。
そう思うことで、ドミニクはマルグリットをそっと慕うだけで満足できていた。
それなのに。
――マルグリット様はお変わりになってしまった。
それが身を切られるように辛い。
リゼットとかいう、一介のメイドに見せたささやかな厚遇。それは本当にささやかで、普段よりもほんの少し親しげだという程度のものだったけれど、マルグリットからの反応に過敏になっているドミニクには想像以上のショックになって、心に響いた。
あの少女はいったい何なのかと思い、よくよく思い返してみれば、王立騎士団が結成されたときのパーティでもマルグリットが親しげに話しかけていたではないか。派手なドレスを着ていたので、どちらかと言えば地味な印象の少女とはすぐに結びつかなかった。アゾット家のメイドだというからには、おそらく以前から何らかのつながりがあったのだろう。
しかもマルグリットは、髪の色を変えることまで検討していた。
――もう、お忘れになってしまったのかしら。
ドミニクは燃えるような赤毛をしている。強すぎる炎の魔力によるものだった。
この国では強力な火炎魔術の使い手は恐れられており、いつ精神が不安定になって周囲に火をつけるか分からないとして、腫れ物に触るような扱いを受けている。だからドミニクは、自分の髪の毛が好きではなかった。
ところがマルグリットは、この髪の色を『素敵だ』と言ってくれたのだ。
――わたくしはピンクと赤の組み合わせが一番好きなの。わたくしとあなたの色よ。
マルグリットは美しいローズピンクの髪をしていた。
雲上人の王女様からそれほどに優しい言葉をかけてもらえることなんて、めったにない。
当時はドミニクも特別扱いで周囲にやっかまれもしたが、それがドミニクの誇りになり、心の支えになったので、まったく気にならなかった。
マルグリットが今の強いドミニクを作ってくれたのだ。
騎士団員に選ばれてマルグリットにねぎらいの言葉をもらったとき、本当にうれしかった。
――魔獣狩りの辛さは、マルグリットにまた褒めてもらいたい一心で克服した。
生き物を切ったり、燃やしたりすることへの抵抗感は、死への恐怖が麻痺させてくれたが、それでも焼ける匂いや嫌な手ごたえが頭にこびりついて、苦しくなることもあった。
いずれは慣れるだろうと思って耐えているが、できればどこかで苦しみを吐き出したいと思ったのだ。
やや不安定になっていたからか、買い物のときについ『ギネヴィアの櫛』を手に取った。
これを誰かに手渡せたらいいなと思ったのだ。
そしてその相手は――
マルグリット以外の誰も考えられなかった。
じゅっと音を立てて、床の木板に火がつく。
ドミニクは慌てて火を消し止めた。
――いけない、不安定になっているわ。
こういうときは魔術阻害を施した沈静用の部屋で過ごす決まりになっている。
ドミニクはすぐに沈静部屋に駆け込んだ。
すると、先客がいた。
「こんにちは。君もパニック中? 僕もだよ」
というわりに、男子生徒は落ち着き払っていた。
部屋に入ってすぐ、不思議な匂いが鼻をつく。
――なにかしら……でも、嫌な匂いじゃないわね。
とにかく沈静部屋に入らないといけない。ドミニクは気にしないことにした。
「――泣いていたの?」
「あ……ごめんあそばせ、何でもありませんのよ」
顔をこすって、近くの椅子に腰かける。
「魔力が強いと困っちゃうよねえ」
「はい……」
男子生徒は何かとよく喋った。落ち着いた喋りに次第にドミニクも冷静さを取り戻し、彼に聞かれるまま、何があったのかを話した。
「実は僕も似たようなものだよ。この学園に危険な人物がいるって訴えたのに、全然取り合ってもらえなくてさ。尊敬していたのに、ショックだよ」
「危険な人物……?」
「そう」
男子生徒はドミニクを不思議な薄笑いで見ている。
どんな感情がその顔をさせるのか、ドミニクがいぶかしんでいると、男子生徒はそっと声をひそめて言った。
「誰にも言わないでよ。……実は、あのアルテミシア・リヴィエールの妹が紛れ込んでいるんだ」
「……アルテミシアさんの?」
その名は苦い記憶とともにしまわれていた。彼女もまた、マルグリットに馴れ馴れしくしていて、目に余っていたのだ。もっとも、マルグリットは適度な距離を保っていたようだけれど。
「しかも、姉よりも性質の悪い魔道具を作るらしくて。こんな危ない人物、両殿下のおそばには置いておけないじゃないか。だからアルベルト殿下にも進言したのに――」
「……マルグリット殿下にも近づいているの?」
「そうだよ。転校生さ。リゼットとか名乗っている子がいるだろう? あれは、妹のリゼルイーズの変名らしいんだ」
その瞬間、いろいろな疑問がぴたりとはまった。
マルグリットが親しげにしていた理由。
そして、サロンで魔道具についてひとりで喋っていた理由も。
変な子だと思っていたが、庶民の血まじりのアルテミシアの妹なら、ろくな教育を受けていないのだろうと推察できる。
アルベルト王子の魔道具好きは有名だから、多少おかしな子でもそばに置きたがるかもしれない。
ドミニクは様々な心労が重なって、少々心身が不安定になっていた。
そのせいで、普段なら抑制できる怒りが、そのときは抑えがたく感じてしまったのだ。
「そんな不審人物がマルグリット殿下のおそばにいるなんて――」
「許せないよねえ?」
そして、冷静ならば気づけたであろう、沈静部屋に漂う不穏なお香の効果にも、ドミニクはどっぷりはまってしまっていた。
「……正体を暴いて、彼らの目を覚まさせてやらないと」
「そうだわ――そうしないと、危険だわ」
「もしも両殿下が目を覚まさないなら、多少強引でも、魔道具師を拉致して、二度と会わせないようにしないと――ねえ?」
ドミニクは男子生徒からそっと渡された小箱を、無心で手に取った。
「これは本来、危険な魔獣の捕縛に使う魔道具なんだけどね。蓋をあけて、対象の名前を呼べば、閉じ込めて、運ぶことができる。箱に入れて、僕に渡してくれれば、あとはいいようにしておくよ」
ドミニクは操り人形のように、こくんとうなずいた。