126 リゼ、お嬢様ことばを諦める
「そうね。私は商売柄、下町の人と接する機会も多いから、あまり気にならないのかもしれないわ。宮廷ことばは独特だから、私もたまに追いきれないことがあるもの」
「アニエスさんでもですか!?」
この賢そうなアニエスさんでも!?
驚いているわたしに、アニエスさんもつられて驚いている。
「え、ええ……貴族の集まりの中でだけ使う言葉ってたくさんあるのよ。私、サロンにはほとんど出入りしないのよね」
「そうなんですかぁ……全然分かりません……」
「分からなくていいのよ。高位貴族に近づかなければ、そこまで厳密な使い分けは気にしなくていいわ」
アニエスさんがいいって言うなら、いいのかなぁ。
「私の喋り方は魔法学園の女子生徒の平均くらいだから、中庸を目指すならこのくらいがちょうどいいわよ。でも、マルグリット様と並んでも文句を言われない程度に、となると、もっと高級語彙の宮廷ことばを覚えないとダメね。ある程度はマルグリット様が私たちに合わせて喋ってくれているようだけれど、本場の宮廷ことばはすさまじいわよ」
わたしは途方もない大海原にちっちゃなボートで投げ出されたような気分になった。
「お、お嬢様言葉にもランクがあるんですね……!」
でも確かに、こないだのパーティのマルグリット様は、何を言ってるのか全然分からなかったかも?
「そうよ。同じお嬢様言葉でも、使用人が使う言葉と、下位貴族が行儀見習いで身につける、いわゆる『スノッブな』言葉、それに寝室付侍女と高位貴族が使う宮廷ことばは、基本的には同じものを目指しているけれど、宮廷やサロンや舞踏会や……どのランクの場所に出入りするかでどうしても差って生まれてしまうのよ。宮廷やサロンでしか使わない言葉をいかに知っているかが、ステイタスになるわけね」
「なるほど! 全然分かりません!」
もう開き直ったわたしに、アニエスさんはくすくす笑った。
「あなたのように、最初から下町の親しみやすい言葉を使ってしまうのもアリなのかもしれないわ。少なくともあなたとは争わなくていいってはっきりするものね」
「じゃあもう、これで行きます! 宮廷にはいきません!」
「それでいいと思うわ」
解決した気分になってから、当初の目的を思い出す。
「……でも、ディオール様に恥をかかせないように、ちょっとだけがんばります!」
「あんな男、恥をかかせておけばいいのよ」
相変わらずディオール様に厳しめ。
「あの男、いつもリゼが失敗してるのを横で眺めて笑っているじゃない。本当に感じが悪いわ」
うぅっ、いい人なんだけど、確かによく笑ってるかもぉ……
反論できないわたしに、アニエスさんがにやっとした。
「そうだわ、今度あの男に笑われたら、こう言っておやりなさい。きっとリゼの見事な礼儀作法に感激して黙るに違いないわ」
「……? なんていうんですか?」
「それはね――」
アニエスさんがこしょこしょと内緒話をしてくれる。
わたしの知らない、難しい言葉だった。
「どういう意味なんですか?」
「言えば分かるわ」
そしてアニエスさんはふと真面目な声になった。
「……今度のマルグリット様のサロン、何事もなく終わるといいわね」
そこでわたしは、前からずっと気になっていたことを、聞いてみることにした。
「……あのう、サロンって何なんですか?」
「簡単に言えば、クラブ活動よ。マルグリット様主催のサロンはその中でも特別で、本場の宮廷ことばを学べて、王族ともコネが作れるから、羨望の的なの」
「そこに呼ばれちゃった場違いな庶民がわたしというわけですね……!」
「安心してちょうだい、私も場違いよ」
「が、がんばりましょうねえ……!」
ディディエール様も一緒だから、きっと何事もなく終わるはずだよね。
楽しそうなアニエスさんに癒されて、わたしはまた気力を回復したのだった。
***
結論からいうと、何事もなくはなかった。
学園にいる間、わたしはなるべくディディエールさんやマルグリット様、それからアニエスさんと過ごすようにしていたので、たいていは何事もなく過ごせていたのだけれど、午前中に外せない用事でお店に出て、午後にだけ学校に来たときに、たまたまひとりになってしまった。
案の定、わたしは校舎の裏で、マルグリット様のファンの女の子たちに取り囲まれることになった。
みんな真鍮のボタンをつけてるので、たぶん庶民の子たち。
「あなたどういうつもりなの!?」
「マルグリット様のサロンに参加をする権利は、みんなで相談して、ローテーションで交代していたのよ!」
ろ、ローテーション……!
さすがマルグリット様、みんなの憧れなんだなぁ。
「あなたが順番を守らないから、みんな怒ってるのよ!」
「ご、ごごごごめんなさい!! わ、わたし、しらなくて……! マルグリット様にお話します!」
「馬鹿ね、マルグリット様は下位貴族の取り決めなんてご存じないわよ!」
「告げ口して助けていただく気!? なんて浅ましいのかしら!」
もっと怒らせてしまった。
「え、えっと、えっと……誰から言われたかは言いませんので、大丈夫ですよ」
「だからそうじゃなくて……!」
めっちゃ怒られてるぅ……
でも、この学園に来てからずっと怒られてるから、だんだん慣れてきた。
ここのお嬢様たち、確かによく怒ってるけど、お姉様みたいにぶってはこない。
叩かれないなら、あんまり怖くない。
だから、パニックになる回数は減ってきたかも。
「すみません……気をつけます……」
しおらしく言って、解放してもらおうとしていたら。
「何をしているの?」
影から出てきた人がいた。
「アルベルト殿下……!」
王子にして生徒会長、そして金髪碧眼、温和で気さく。
わたしはむしろ、王子の登場に戦慄した。
この学園で一番の大物が出てきちゃった……!
「あ、あの、えっと……」
まごまごしている女子生徒たちに、アルベルト殿下が微笑みながら割って入り、私を背に隠してくれる。
「この子は私たちのお気に入りだから、喧嘩したりしたらマルゴも悲しむよ」
その瞬間、わたしは、終わった、と思った。
さよならわたしの学園生活……!
王子様のお気に入り宣言がどれだけのものか、わたしは姉から聞かされて、よく知っている。
教科書は燃やされ、私物は捨てられ、水浸しにされ、叩かれ、笑われ、無視され……
姉は全部やり返したと言って笑っていたけど、わたしは聞いているだけでとても怖かった。
真鍮のボタンの子たちは、わたしと王子を交互に見て、複雑そうな顔をしている。
「仲良くできない子は、マルゴも持て余すだろうね」
暗に告げ口するかもしれないとほのめかされて、彼女たちは完全に黙り込んで、固まってしまった。
「もう行ってもいいよ。お疲れさま」
アルベルト王子の言葉で金縛りが解け、彼女たちは王子に軽くお辞儀をして去っていく。
とりあえず、この場は切り抜けた。
「あ、あの、ありがとうございました」
「けがはない?」