119 リゼ、髪結い師を志す
魔道具師は何でも作るけど、人工毛は作らない。
人間の髪の毛(髪の毛に限らず、生き物の素材は全部だけど)は複雑な構造をしていて、一から【物質化】するには向かないのだ。
載っている人工毛は、人間の毛髪ほどではないけれども、それでも複雑な構造をしていた。
これを作ってカツラの毛量(その数なんと十万本)まで増やすのは無理。
今のわたしだと何か月かかるやら。
しかもこの髪の毛――
わたしは髪の毛に書き込まれる魔術式に目がいった。
これ、『自然に伸びる』って書いてあるけど、本当なのかなぁ……
もしも本当だとしたら呪いの人形みたいでちょっと怖い。
もっとも、伸ばすには装着者の魔力紋と完全になじませて、魔力が供給できるようにしなければならないともあるから、外しているときは伸びないのかもしれないけどね。
わたしはパラパラと【ベレニケの髪】の作り方を眺めて、いやぁ無理、と速攻で結論付けた。
わたしは【複製】の生活魔法が得意だけど、これはわたしの技術が稚拙に思えるくらいの複雑さだ。
まるで生き物みたいに増殖する――なんだろう、【自己複製】の魔術とでも言えばいいのだろうか。
わたしにはできない。
これが完全に作れるのはおばあさまだけだと思う。
それか、神様。
生命を生み出す大地母神の領域だ。
――まあいいや。
わたしはページをもう一つめくる。
あぁ、あった、あった。
わたしが探していたのはこれ。
髪結い師さんがカラーリングやロールを作るときの魔術式!
天然の髪の毛には魔術式が乗るから、加工も割と簡単だ。専門の髪結い師さんはたくさんいる。
おばあさま作の【ベレニケの髪】にも魔術が乗るようで、加工のテクニックがいくつか書かれていた。
ほほー、なるほど、なるほど。
人毛にはそれぞれ魔力があり、その固有のパターン――魔力紋がある。それを編み込みながら魔術式を入れていくのが、自然な人毛に見せるコツ、か。
思ったとおり、人毛の加工だったらわたしにもできそう。
あとはディディエールさんの髪質次第かな。
いったいどんな仕組みで水が凝固するんだろう。
わたしは早めにお店を切り上げ、戻ることにした。
***
わたしが帰ってきたのを出迎えるなり、ディディエールさんはしゅんとしていた。ディオール様と間違えたらしい。
「昨晩はお兄様とお会いできなかったのですわ……」
「お帰りが遅かったんですね」
「悲しいですわぁ……」
うるっとするディディエールさんのところに、たったった、と軽快な足音が近づいてくる。
「なんだお前、また泣いているのか!」
走ってきたのはフェリルスさんだった。
「……フェリルス」
「悲しいときは俺を呼べと言ってあっただろうが!」
「フェリルスぅぅぅ~~~~」
ディディエール様はフェリルスさんのモフっとした首に抱きついて、おいおい泣きだしてしまった。
「しょうがない小娘だ! 俺がお前の悪い魔力を全部食ってやる! だから、もう泣くな!」
ぺろぺろと涙をなめとってくれるフェリルスさんに、ディディエールさんはちょっとだけ嬉しそうな顔になった。
「ふふ、くすぐったいわ、フェリルス」
「昨日はご主人の実験に付き合っていたからいなかったが、今日はお前についていてやるからな! もう安心だぞ!」
フェリルスさんの面倒見のよさしゅごい……
運動不足のわたしにもずっと付き合ってくれてたし、お世話を焼くのが上手なんだろうなぁ。
ディディエールさんも落ち着いたみたいで、ほわーとした笑顔になった。
「フェリルスさんが一緒だと、ディディエールさんの体質も変わるんですか?」
「ん? いや、俺は精霊だからな! 広範囲の魔力を取り除いて、環境を正常にするのは得意中の得意だ! 天気が変わるような魔法にも対応できる!」
「お天気わんちゃん……!」
フェリルスさんは何でもできるんだなぁ。
天候操作は、わたしにはちょっと真似できない。
「……そうするとフェリルスさんは、ディディエールさんの髪の毛も治してあげられたりするんですか?」
「いや、これは難しい!」
フェリルスさんはブルブルブルッと大げさなくらい首を振った。お耳が高速ではためいてパタパタと音を立てる。
「こいつの髪の毛にある水の魔法はごく単純で短い式だが、これが何億回の単位で書き込まれている!」
「何億……」
「構造もすごいぞ! 木の年輪状の二重構造だ! 脆弱なヒトでは一生かかっても壊しきれまい!」
「それは無理ですね」
わたしの【重ね文字】は平面に【積層】状に重ねるんだけど、立体型は無理だ。そんな生き物素材みたいな構造の魔術式、どうやって記述するのか見当もつかない。
うーむ。
「ディディエールさん」
「はい」
「わたしは魔道具師なので、髪の毛の加工もちょっとできるんですが、もしよかったらほんの少しだけ髪を見せてもらってもいいですか?」
「えっと……」
ディディエールさんは困ったようにフェリルスさんをちらり。
「見せてやっちゃどうだ? こいつはヒトにしては少々面白い魔道具を作る! この俺も認めているくらいだ!」
「……フェリルスがそう言うなら」
ディディエールさんはしぶしぶうなずいた。
まあ、今の話だけでもかなり難しそうなのは分かったから、できるとも思えないけど、一応。
わたしはディディエールさんを連れて、あてがわれている自室に戻った。
魔法の絶縁体である麻製の大きな布を首から下にかぶってもらい、髪の毛を見せてもらうことに。
わたしはディディエールさんの背後から、ヴェールを解いた。
まとめ髪のピンを全部取って、自然におろす。
魔力の紫がきれいな髪の毛だ。
……うーむ。
フェリルスさんの評価通りの複雑な魔術式。
目視の範囲でも複雑だけど、拡大したらもっとすごそう。
そしてこの量。十万本分。
アゾット家がさじを投げたのも分かる。
ここに手を入れられるのは、神様だけだ。
……とりあえずこの、何度も繰り返し現れる不思議な文字列が水の魔術式で間違いないのかな。
壊して、均一にならすことができたらなんとかなりそう。
わたしは意を決して、適当な文字列を上書きしてみることにした。
無意味な文字を挿入するか、一部を消し去れば、魔術式は壊れる。
あ。
いけそうかも。
何本か直してみたところで、わたしは絶望的な気分になった。
これは、終わらない……!
単純な魔術を同時に展開する【多重起動】の生活魔法フル回転でも、たぶん、一日に髪の毛百本分書き換え終わるかどうか。
……でもまあ、試しにやってみようかなぁ。
わたしは【多重起動】を限界まで展開しようとして――
無限に広がるような錯覚を覚えた。
びっくりして、手を止める。
……あれ? 何か変だったけど、もう一回。
わたしの【多重起動】は、生き物素材などを相手にしたら、だいたい二十倍ぐらいが限界。
ところが――
わたしの魔法はどこまでもどこまでも増殖し、髪全体に広がっていく。
え? ……え!?
この感じ、昨日と同じ。
昨日も、わたしにはできないはずなのに、【重ね文字】が勝手にどんどん増えていった。
ほどなくして、勝手に無意味な文字列を挿入して魔術式を無効にする魔法はすみずみまで行き渡り――
髪の毛の色も、紫色からどんどん変わって、薄い銀色になった。
「……なお、った」