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行政区の中心、塔の最上階。
唯一の部屋には影が一つだけ。これでもかという量の書類を机の両端に積み上げ、その中央で難しい顔をしているのが今の宰相だ。
ふと宰相の視線が書類から入口のドアに移る。ドアがノックされたのはその直後だった。
「閣下、ヨルナです」
「入れ」
「失礼いたします」
入ってきたのは、常夏の国に似合わない真っ黒の燕尾服を着た男だった。黒の前髪を真ん中で分け、中性的な顔立ちは、どこかエロティックな雰囲気を醸し出している。
「もう会談の時間だったか」
この部屋には時計はなく、宰相もまた時計の類を身につけておらず、秘書であるヨルナが彼のスケジュールを管理している。
「いいえ、訪問者です」
「予定にはないな」
「突然押しかけてきました」
「憲兵は何をやっている」
宰相はため息を吐いた。
「名前は」
「フリーシア=ホルスタイン。歳は二十。クレアツィオーネ村出身です」
「ホルスタイン、卑しい家名だ」
「はい。彼女の父は元科学技術顧問フリースラント=ホルスタイン准男爵。水道について話がしたいそうです」
「いいだろう。通せ」
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その頃、ドレス姿の少女——フリーシア=ホルスタインは宰相の真下、塔の最下階で椅子に腰掛けてそわそわしていた。
何を言うべきか。秘書には、とりあえず水道の件と伝えたが、果たしてそれは正しかったのか。会えるとして、どう切り出せばいいのか。言いたいことは山のようにあった筈なのに、いざ宰相に会えるかもしれないとなると、よく分からなくなってきたのだ。
そもそもフリーシアは、あの男の憲兵が言った通り、まともに相手にされずに適当にあしらわれてしまう可能性をについて最も考えていた。暴徒とみなされ憲兵に拘束されるかもしれないと考え不安で眠れなかったことも何度もある。
しかし、現実は違った。行政区に入り憲兵の数は増えたが、誰一人としてフリーシアに近づくものは無く、この塔の入り口でも大した検査も受けないまま中へ通された。
「杞憂だったらしい」
うっかり言葉をこぼすと、フリーシアは自分の頬を軽く叩いた。
「私のいけないところだ。どうせ最後には腹を括るのに、その直前までくよくよくよくよと……情けない」
気持ちを切り替えるはずが、フリーシアは不安のあまりついに独り言を始めた。
「そうだ、あの秘書は水でも飲んで待てと言ったな。せっかくだ、貰うとしよう」
言いながら立ち上がると、水が入っているであろう物を探す。
「あの樽か」
胸の高さほどの戸棚の上に載ったそれ見つけ、近づいたところでフリーシアは困惑した。
樽はあるが、一見するに水を移す容器が見つからない。
「宰相ともあろう者が、水は樽で直接飲むのか」
疑問に思いながらも、両手で樽に力を籠める。
樽を持ち上げるとなぜか戸棚までついてきたが、鈍い音と共に戸棚は落ちた。
その瞬間、樽の底から水が噴き出した。
「きゃぁあああっ」
可愛らしい悲鳴を上げるも、フリーシアは咄嗟に空いた穴に口をつけ飲むことで、それ以上水がこぼれるのを防いだ。しかし、ここからの展開が思い浮かばない。フリーシアには、もはや飲み続ける選択肢を取るしかなかった。
フリーシアは必死に水を呷った。
自分が何者か、ここに何をしに来たのか、全てを忘れて水を呷った。
全ての水を飲み干したとき、フリーシアはずぶ濡れだった。
「おや、水浴びですか。気持ちよさそうですね」
ヨルナは冷笑した。
宰相にフリーシアの事を告げ、自分が戻ってくるまでの十分足らずの間に、少女とウォーターサーバーに何があったのか。それも気になったが、なにより樽を抱きかかえたまま、死んだ目でこちらを見つめるフリーシアの姿が滑稽だった。
「水を移すものがなかったのでな」
悪態を吐くフリーシアに、ヨルナは静かにかぶりを振った。
「下の棚にあります。なぜか割れていますが」
ヨルナが棚を開けると、そこにはグラスの残骸が散らばっていた。
「あ……」
なぜ開けなかったのか、フリーシアは自分でも不思議に思った。
「それと、戸棚と樽は合わせて一つです。決して別々のものではございません。棚の内側の蛇口を捻ることで水が出てきます」
次々に自分の失態を露わにされ、フリーシアの顔はすでに真っ赤だった。今にも泣きだしそうだったが、フリーシアは床に頭をつけて謝った。
「本当に申し訳ありませんでした」
「構いません。後でしっかりと請求させていただきますので」
フリーシアはその言葉に少し救われた気がしたが、泣きたい気持ちに変わりはなかった。
「さて、宰相が待っています。こちらへ」
ヨルナに導かれるまま、フリーシアは昇降機に乗り込んだ。
塔の長さは八十メートル。この国の塔は、警備の都合から基本的に最下階と最上階の二層しかなく、昇降機は宰相のいるところまで一気に駆け上がる。
「私などが宰相にあっていいのだろうか」
「それは宰相が決めることです」
「そうだな。その通りだ」
「さあ、着きます。降りた正面の部屋に宰相がいます」
昇降機が止まり、扉の前に立つと、自然と腹は決まった。
「閣下、フリーシア=ホルスタイン様をお連れしました」
ヨルナが扉をノックし、それに答える声があった。
「入れ」
「失礼いたします。そうぞ」
扉をヨルナが開き、頭を下げる前を悠然と通りフリーシアは部屋に入った。
「フリーシア=ホルス――」
頭を下げ、まずは名乗り、突然押しかけた非礼を詫びようとしたが、名前を言いきる前に、宰相がそれを遮った。
「水道に水、流して欲しいか」
「え、はい」
「よし、じゃあこれにサインしろ」
「え」
突然のことに戸惑っていると、ヨルナが書類を板に挟んで持ってきた。
「こちらの書類のここにサインを。ペンはこちらをお使いください」
「あ、ああ」
言われるまま、フリーシアはサインをした。
「これでいいのか」
「はい。あとはここに母印を。朱肉はこちらを」
そして、言われるまま親指を赤く染め書類に押し付ける。
「はい。お預かりします」
「閣下、ご確認を」
「問題ない」
「これは控えです」
あっという間に、フリーシアの手元には水道使用許可書の控えと縛る紐が渡された。
水道使用許可書とは名前の通りのもので、クレアツィオーネ村は今をもって水道を取り戻したことになる。
「長年使っていないとなると点検の必要もあるだろう。遅くても二日後にはクレアツィオーネに遣いの者と技術者を向かわせる。ヨルナ、手配しておけ」
「承知いたしました」
「よし。会談はどうだ」
「少し早いですが、場所が場所です。すでに馬車を待たせておりますが、いかがいたしましょうか」
「あの秘境か。分かった、すぐに用意する」
何の話をしているのだろうか。そんなことを考えながら、書簡を丸め、紐で括り付けたフリーシアは、ふと思い出した。宰相に言いたいことは水道の件だけではなかった。
「あの」
宰相は羽虫でも見るような目で、フリーシアの方を向いた。
「なんだ、まだ居たのか。邪魔だ、はやく出て行け」
「ちょっと待ってほしい、私はまだ――」
「摘み出せ」
命じられたヨルナに腕を掴まれ、フリーシアは部屋から摘み出された。決して抵抗しなかったわけではなく、樽を持ち上げたとき以上の力で振り払おうとしたが、ヨルナの力はそれ以上だった。もう一度部屋に入ろうとしても結果は同じだろう。それにフリーシアは一つとはいえ、目的を達成したのだ。これ以上を望むのは欲であると考えた。
「しかし、あっという間だったな」
部屋の外でフリーシアは思わず呟いた。
まだドレスも髪も濡れたままだったし、昇降機前の床にも水滴が残っている。
「あれだけ考えたのに……」
フリーシアは笑い飛ばした。
「本当に全て杞憂だったわけだ」
右手に持った書簡を見つめ、フリーシアは拳を握った左手を高らかに掲げた。




