その少女は幼なじみに恋をして
私は幼なじみの神咲佐奈のことが好きだ。
私と佐奈は家が隣どうしだったこともあり、それこそ赤ちゃんのころから家族ぐるみで付き合ってきた。保育園、幼稚園、小学校、中学校、そして高校までずっと一緒にいる私達は、お互いに無二の親友であると思い合っている。しかしその友情は私のなかで次第に愛情へと変わっていった。
佐奈と恋人になりたい。高校に上がってからますますその想いは強くなった。
想いは抱くだけでは相手に伝わらない。心の中が読めたりしない限りは、きちんと言葉を用いないと正確に気持ちを伝えることはできない。
だから私は自分の気持ちをなるべく声に出して佐奈に伝えるようにしてきた。
『髪型変えたんだ、似合ってんじゃん』『リップの色可愛い~』『佐奈って細くてスタイル良いよね』『その服どこで買ったの? めっちゃいいじゃん』
婉曲的ではあったけど、それでも一つ一つの言葉に『好き』を込めて投げ渡してきたつもりだ。その想いは少なからず佐奈に伝わっていると確信を持って言える。
「私が男だったら佐奈のこと絶対ほっとかないんだけどなー」
「私だってもし男だったら悠貴にがんがんアピールしてたって」
「ホント?」
「ホントホント。あ、でもそしたら悠貴の方が背が高くなっちゃうか」
「全然いいよ! 相手の背が低くても!」
「お、えらく断言するね~。誰か気になる人でもいるのかな?」
「ち、違う違う、そういうんじゃないから! 背の高い低いはどっちでもいいってだけ!」
「でも彼氏の背が低かったらキスするとき背伸びしなきゃいけなくなるよ? ほら、こんな感じで――」
「――――」
「あっは、悠貴の顔真っ赤じゃん」
「き、急に佐奈が変なことするからだよ!」
じゃれあってくだらないことを話すのは楽しかった。
佐奈と二人きりでロマンチックな景色を見ながら『実は私――』と佐奈に打ち明ける場面を何度も想像した。佐奈は最初驚くんだけど、はにかんで『私も』と笑うのだ。
出来れば高校にいる間に告白したい。もし佐奈と恋人になれたら夏休みにどこに行こうか、冬休みに何をしようか――妄想は膨らみ、私はひとりでニヤニヤしていた。
「悠貴、大事な話があるんだけど」
雨の降る帰り道、水玉模様の傘をさして横を歩く佐奈が神妙な面持ちで切り出してきた。
「どしたのそんな真面目な顔で」
おどけて返しながらも私の胸は高鳴っていた。もしかして佐奈の方から私に告白をしてくれるんじゃないか。そんな期待が頭をよぎる。
「私、彼氏が出来た」
「……………………え」
佐奈の口から聞かされた言葉は私にはまったく理解できなかった。
彼氏? なんのこと? 彼氏ってなに? 佐奈に? え? 聞き間違い? うそだよね? あぁこれは冗談か。佐奈が私を驚かす為に冗談を――。
「■■くんって知ってるよね。同じクラスの」
やだ。知らない。聞きたくない。
「この前の体育祭の準備で一緒に話してるうちに気があっちゃってさ」
なにそれ。初めて聞いた。もういい。続きを言わなくていいから。
「昨日の帰りにね、ラブレターもらって――あは、いまどき古風だよねぇ、ラブレターなんて」
だから知らないって。なんで私にすぐ言ってくれなかったの? なんでそんなに嬉しそうなの?
「一晩考えて、付き合うことにした」
…………。
頭が真っ白になった。
これを現実だと受け入れることを拒否している自分がいる。
「だから悠貴、ごめんっ! 明日からは一緒に帰れない!」
申し訳なさそうに手を合わせる佐奈の顔は、やっぱりどこか嬉しそうだった。
「でも悠貴とはこれからもずっと親友だからね」
親友になりたかったわけじゃないのに。
私は何も言わなかった。口を開いてしまえば現実を認めたことになってしまうし、何か喋ろうとすればきっとろくでもない言葉が出てきてしまう。かすかに残った理性が私を抑えてくれた。
そこから家に着くまでの間、何を話したかは覚えていない。佐奈が自分の家に入っていくのを見送って、私は立ち尽くした。家に帰らなければ時間が止まってくれるんじゃないか。一生明日にならずに済むんじゃないか。そんなバカげた考えが浮かんでくる。
傘に当たる雨の音がやけにうるさい。その音を聞きたくなくて傘を持つ手を降ろした。
空には灰色の厚い雲がどこまでも広がっている。体やカバンがまたたく間に濡れていくがどうでもよかった。
見上げた私の顔に雨が降り注いだ。雨粒が頬を流れていったとき、あぁ、と得心した。
私の代わりに泣いてくれているんだ、と。
学校という場所が地獄に変わった。
私達二人だけの時間だった休み時間。ずっと私の方を見てくれていた佐奈の瞳はたびたび他方へと向けられた。
くすりと笑い、目を細めて体の影で小さく手を振る佐奈。本当ならその視線の先にいるのは私のはずなのに。
佐奈が私の顔を見て恥ずかしそうに舌を出した。
なんでそんなに嬉しそうなの? 目の前にいる私よりもそいつの方が大切なの? 物心つく前から一緒に過ごしてきた私より、たかだか一年とちょっと同じクラスだった男の方がいいの?
叫びたかった。走って教室を飛び出したかった。でも出来ない。佐奈が好きだから。佐奈に迷惑を掛けるようなことは絶対にしたくない。
でも佐奈の幸せそうに微笑む横顔を見るたびに、『なんで私じゃないの』と私の胸が締め付けてくる。
ひとりの帰り道は本当にきつい。
佐奈が隣にいないだけで世界が変わって見える。今頃佐奈はあの■■と一緒にいるのだろうか。だめだ。想像すればするほど苦しくなってくる。
佐奈は私に追い打ちをかけるように彼とのことを報告してきた。
彼と帰りにどこそこへ寄ってきた、彼の好きな食べ物はアレで好きなマンガはコレ。あんな見た目なのに意外にもこんなとこがあるんだよ。可愛いと思わない? 最後には手を繋いじゃった。
………………佐奈の性格は私がよく知ってる。だからこれが自慢や当てつけなんかじゃないことも分かってる。佐奈は私に共感して欲しいだけだ。そして初めて出来た彼氏との仲を親友に応援して欲しい、と。
『よかったじゃん。がんばりなよ』
これだけの文字を打つのに吐きそうになった。
ネガティブなことだったらいくらでも言える。どうせすぐに別れる。男なんて女の顔と体しか見てない。ほかに可愛い子がいたら平気で浮気をする。だから早いうちに佐奈の方からフっちゃいなよ。
吐き気が憎悪で塗りつぶされていく。この心の底に溜まった澱を全部ぶちまけられたらどれだけ楽になれるだろうか。
……ぶちまけた後どうする。それで『私と付き合って』とでも言うのか。佐奈がそんな簡単に私の元に来てくれるとは思えない。むしろ私に嫌気がさして遠ざかるはずだ。横から口を出して幸せオーラ全開の佐奈の笑顔を壊すようなこともしたくない。
私に出来ることはせいぜい早く二人が別れますように祈りながら、今まで通りに親友として接していくしかない。
親友として、接して……。
…………。
『悠貴、聞いて聞いて! 今日ね、あぁ~! やっぱり言えない!!』
ある日の夜。ラインに送られてきたその文章を見た瞬間、私の脳が警告を発した。『なにがあったの』と返事を打とうにも指が動いてくれない。
既読がついたのは佐奈も分かったのだろう。私の返信を待たずに言葉を続ける。
『やっぱり言っちゃおっかな。悠貴にはちゃんと報告しときたいし』
だめ。やめて言わないで。それだけは見たくない知りたくない。
私の切なる願いも虚しく、佐奈がそれを書き込んだ。
『今日の帰りね、■■くんとキスしちゃった』
ゆるい絵柄の動物が恥ずかしがるスタンプを呆然と見つめながら私は理解した。
親友としてこれからも佐奈と付き合っていくのは無理だ。
佐奈と顔を合わせるのが恐い。佐奈と普通に会話をする自信がない。
私はスマホを放り投げて布団を被った。
嫌だ。なにもかも嫌だ。学校に行くのも佐奈と会うのも話すのも。こんな、こんなつらいだけの人生なら残りは無くなってもいい。佐奈と一緒に歩けなくなった人生に何の価値もない。
次の日、私は学校を休んだ。
佐奈からラインが何回も送られてきたが全部開くことなく無視をした。通知を見るのも嫌になり、スマホの電源を切って床に転がした。
私はベッドに潜ったままつとめて何も考えないようにしようとしてたが、気付くと佐奈のことを考えてしまっていた。
急に休んで連絡が取れなくなった私のことを心配してくれているだろうか。いやどうだろう。私のことなんか忘れて今頃は彼氏と仲良くしているかもしれない。なんたって初キスをしたばかりだ。二人でいちゃいちゃしたくてきっと人目を忍んでいちゃいちゃいちゃいちゃ――!
掛け布団にくるまり体を小さく丸めた。佐奈が彼氏と仲睦まじくしている光景を想像すればするほど気が狂いそうになる。
もし――もし私が先に告白をしてたらどうなっただろう。佐奈は受け入れてくれただろうか。受け入れてくれていたなら、佐奈の隣で手を繋いでいたのは私だった。なんでもっと早くに行動しなかった。なんで、なんでなんで。
怒り、憎しみ、後悔。それらの感情が渦を巻き私の心を蝕んでいく。
もうこれからどうすればいいのか分からない。
学校には行きたくない。佐奈にも会いたくない。けど、佐奈に嫌われたくもない。
事ここに至っても私はいまだに佐奈のことが好きだった。
いっそ私から嫌いになってしまえればどれだけ楽か。佐奈につらく当たる自分を思い浮かべ、あぁ絶対に無理だなと自嘲した。やっぱりどんなことがあっても私は佐奈が好きなんだ。
…………。
コンコン。
いつの間にか眠っていたようで、ノックされる音で目が覚めた。ドアの外からお母さんの声が聞こえてくる。
「悠貴ー、お友達が来てるわよ。プリントとか持ってきてくれたんだって」
私の意識が急激に覚醒する。
「誰? 佐奈?」
「違う子。名前は……なんて言ってたっけ。クラスメイトの女の子よ」
誰だろう。佐奈だったらどうしようかと焦ったけど、違うならどうでもいい。
「……プリントだけもらっといて」
「なんかね、授業でとったノートのコピーもあるらしいんだけど、口頭で説明したいから会わせて欲しいって言ってた」
「じゃあ上げていいよ」
わざわざ板書の写しまでくれるとは優しいクラスメイトだ。一言お礼を言うくらいはした方がいいかもしれない。
お母さんが玄関に戻って少ししてから、廊下から足音が聞こえてきて私の部屋の前で止まった。
「喜島さん、入っても大丈夫?」
声を聞いても誰かは分からない。これが佐奈なら一発で分かるのに。
私はベッドから上半身を起こして招き入れた。
「……どうぞ」
部屋に入ってきたのは制服姿のおとなしそうな女子だった。顔を見てそういえばクラスにいたなと思い出したが、いかんせん私が佐奈以外に興味がないのであまり覚えていない。目立つタイプの女子でもないし、係や委員で被らなければ接点はない。
目の前の女子は硬い声で名乗った。
「同じクラスの皆木梨香です……ごめんね、突然お邪魔して」
「あーいや、プリントとか持ってきてくれたんだよね。ありがと、助かるよ」
皆木さんがほっとしたように笑ってからベッドに近づいてくる。
「全然たいしたことじゃないから。はい、これが今日もらった配布物と、あとこれがノートのコピーで……」
カバンから紙を取り出しながら皆木さんがそれぞれの説明をしてくれた。宿題の範囲まで懇切丁寧に教えたあと、私の顔をじっと見てくる。
「喜島さん、体調はもう良いの? 元気そうに見えるけど」
「あ、えっと、どうだろ……まだちょっとアレかな」
一応病人ということになっているので私は適当にごまかした。
「すぐ学校には来れそう?」
「まぁ、うん」
すぐかどうかは分からない。一日経っても私の心の闇が晴れることはなかった。
「神咲さんも喜島さんのこと心配してたよ。連絡も取れないって」
「…………」
神咲さん――つまり佐奈のことだ。心配してたと聞いて嬉しさと申し訳なさ、そして寂しさが湧き上がってくる。
私はわざと声のトーンを上げて吐き捨てるように言った。
「はっ、心配してるって言っても結局顔すら見せに来てないし。別に私のことなんかどうでもいいんじゃないの?」
「違うよ」
「――え?」
「私が神咲さんにお願いしたんだ。プリントは私に持っていかせて欲しいって。本当は神咲さんが持ってくるはずだったんだけど」
確かに普通に考えれば家が隣の佐奈が持ってくるのが一番だ。それをわざわざ皆木さんが変わる理由は何だ。皆木さんも家が近い? いや、中学校までで見た記憶はないからそこまで近くには住んでいないはずだ。
私の考えを読んだように皆木さんがふっと笑う。
「なんでそんなことしたんだろう、って思ってる?」
「……まぁ」
「それはね――」
皆木さんが急に私に顔を近づけてきた。
「私が、神咲さんの代わりになりたかったから」
「か、代わり?」
「神咲さんじゃなくて私じゃダメかな?」
「ダメって何が?」
「彼女になるの」
「かの――はぁ!?」
私は思わず素っ頓狂な声をあげた。皆木さんは更に顔を寄せてくる。
「喜島さんが休んだ理由は分かってる。神咲さんに彼氏が出来てつらかったんだよね」
「な、なんのことか分からないんだけど」
「知ってるよ。喜島さんが神咲さんを好きなこと」
「いやいや急に変なこと言わないでよ! 別に私は佐奈のことなんか――」
「私はずっと喜島さんのことが好きだった」
「――っ」
突然の告白に私は言葉を飲んだ。皆木さんは静かな熱を込めて話を続ける。
「一年の頃から喜島さんが好きで学校にいる間ずっと見てた。だから喜島さんの気持ちも、今の心境も全部わかってる。本当は私の気持ちを伝えるつもりなんてなかったんだよ。喜島さんが神咲さんと結ばれるならそれが一番いいことだって思ってたから。でも、最近の喜島さんを見るのはつらくて……せめて私が助けになれたらって思って、それで……」
皆木さんが悲痛そうに表情を歪めた。
私と似ている、と思った。好きな人を想い続けるところも、その好きな人が自分と違う人を好きになったことも。
「私じゃ、ダメ?」
吐息がかかるほどの近さで皆木さんが潤んだ瞳を向けてくる。
「私は神咲さんみたいに裏切ったりしない。喜島さんの望むことは何でもしてあげる。神咲さんの代わりとして扱ってもらっても構わない。だから――……」
私の脳裏に様々な想いがよぎる。
告白を断れという声。佐奈の代わりなんて存在しない。いきなり付き合ってと言われても相手のことをほとんど知らないのに付き合えるわけがない。佐奈がダメだから違う子、なんてみじめ過ぎる。
告白を受けろという声。佐奈の代わりでいいじゃないか。本人もそれでいいと言っている。私が好きな相手と結ばれることは無理でも、私を好きな相手と結ばれることは出来る。妥協でも打算でも、私の寂しさを和らげてくれるのならその好意に甘えるべきではないか。
だがどちらにせよこの場ですぐに返事なんて出来ない。とりあえず皆木さんには帰ってもらって後日あらためて返答しよう。
そうだ、佐奈に相談してみるのはどうだろう。よくあるじゃないか。それまで友達だと思っていた相手が誰かから告白をされたのを知って初めて自分の恋心に気付くってやつ。
――あるわけない。すでに彼氏がいる佐奈に相談したところで私に気持ちが傾いてくれるわけがない。だってもしそうなら佐奈が告白されたときに私への想いに気付くはずじゃないか。それがなかったということは……。
こうやって皆木さんと話している今も佐奈は彼とデートをして、キスをしたりしているのだろうか。
あぁダメだ。考えないようにしようとしてもつい佐奈が彼と何をしているのかを考えてしまう。だって仕方ないじゃないか。私だって佐奈とキスがしたかった。二人ともがファーストキスで、お互い照れながら顔を見合わせて笑いたかった。でもそれはもう叶わない。
「……してよ」
衝動的に私は呟いていた。
「キス、してよ。何でもしてくれるんでしょ」
皆木さんは何も答えずに体を乗り出し、私にキスをした。
私のファーストキスはあっけなく終わった。
なんだ。キスなんてただ唇と唇が触れ合うだけ。別に楽しくもないし胸が高鳴ることもない。こんなので喜ぶなんてどうかしてる。
それが強がりだということは分かっていたが、認めたくなかった。佐奈が喜んだ理由は、キスをしたからじゃない。“好きな人と”キスをしたからだ。
真似事をしてみても自分のみじめさを思い知らされただけだった。陰鬱とした息を吐きながら皆木さんの方を窺う。皆木さんは口を手で覆い、顔を赤らめていた。
その様子に声を掛ける。
「……大丈夫?」
「私のファーストキス……喜島さんと出来て嬉しくて……」
照れと喜びの入り交じったその表情が佐奈とダブった。だからだろう。私はすんなりと皆木さんの告白を受ける気になった。
「……いいよ。付き合おっか」
皆木さんが目を見開いた後、涙ぐんで笑顔を浮かべた。心の底から嬉しそうな皆木さんを見て、佐奈は告白を受けたときどんな表情をしたのだろうかと考える。
付き合うことを決めて尚、私の頭の中は佐奈のことばかり。
私は胸中で静かに自嘲して笑った。
梨香と付き合いだしてから、私は佐奈と連むのをやめた。休み時間も放課後もずっと梨香と一緒にいるようになった。
あからさまに避ける私に佐奈が『何かあった?』と聞いてきたが適当にあしらった。
佐奈のことが嫌いになったわけでは断じてないが、少なくとも心の整理がつくまではあまり関わらないようにしたかった。
けれど私の目はいつも佐奈の姿を追ってしまう。授業中も体育の時間もお昼にお弁当を食べているときも。
佐奈の顔を見ては胸が締め付けられたし、佐奈が彼氏と話しているところを見てしまうと胸の内側が押し潰されるように痛んだ。
プールの授業の後、更衣室で着替えていると会話が聞こえてきた。
「男子でさ、めっちゃこっち見てるやついなかった?」
「いたいた。あれでバレてないと思ってんのかねー。もう男子とプールの時間分けて欲しいんだけど」
「ホントホント。あたしらの水着姿見られ損じゃん。せめて見るならお金払えっての」
「あんたのその体でお金は取れないでしょー」
「はぁ!? この魅惑のボディをなめんなっつーの。■■くんとかちらちらあたしの方見てたし」
「ばーか。■■はあんたじゃなくて神咲さんを見てたの。ねー、神咲さん?」
「えっ? いやーどうだろー……?」
「またまたぁ。隠さなくていいって。知ってる子は知ってるんだから」
「マジ!? 神咲さんと■■くんが!? えー、聞かせて聞かせて!」
「えっと、その、あはは……」
「付き合いたての男子高校生に彼女の水着は結構刺激強いんじゃない? 今頃神咲さんの裸想像してムラムラしてるかもよ?」
きゃーっ、と黄色い声がして、私はもう限界だった。髪もろくに拭かずに制服を着ると更衣室を出ていった。
足早に進む私の腕が不意に掴まれた。振り返るとそこには私と同じくらい髪を濡らしたままの梨香がいた。梨香は何も言わなかった。言わなくても言いたいことは伝わってきた。
「……ありがと」
私がお礼を言うと梨香は控えめに笑った。梨香の手を掴んで歩きだす。
「教室戻る前に髪乾かさないとね」
梨香はことあるごとに私を慰めてくれた。私の心が悲鳴をあげるとそっと私に近寄ってきて手や腕に触れ、大丈夫だよ、と微笑んでくれた。
梨香と一緒なら、私の擦り減った心も元に戻るんじゃないか。次第に私もそんなことを考えるようになった。
私の本当に好きな人が誰かを知っていてここまで親身に支えてくれる子なんてこの先一生現れないだろう。なら私も梨香に寄り添って歩んでいくべきではないか。未練を断ち切り前を向くことで人生はより明るくなるはずだ。
一瞬で世界が暗闇に落ちた。
帰り道の途中で梨香と別れ、私の家が見えてきた頃。手前の家――佐奈の家の前に制服姿の男女がいた。佐奈とその彼氏だ。わざわざ佐奈を送りに家まで来たのだろうか。だからといって別に偉いとかすごいとか思うわけではないが。私だって実質佐奈を毎日家に送り届けていたんだ。どちらかと言えば私の方が偉いに決まってる。
あまり近づきすぎたら佐奈が私に気付くかもしれないので、少し離れたところの角に隠れた。おそらくこのまま彼氏の方が帰っていくだろうと思った矢先、佐奈が彼の手を引っ張って家の中へと消えていった。
彼女が彼氏を自分の部屋に連れ込むことがどういう意味なのか知らないわけじゃない。もちろん全部が全部そういう理由ではないが、少なくとも佐奈は彼を部屋に入れるくらいには心を許しているということ。
二人きりの部屋で彼がキスを迫ったら、佐奈は応えるだろう。そのキスがどんどんエスカレートしていけばやがて――。
その想像に至ったとき、猛烈な気持ち悪さと目眩に襲われ私はしゃがみこんだ。家まであと少しだというのに体は動かず、アスファルトに突っ伏してしまいそうになったのを壁に寄りかかることでなんとか耐える。
このままじゃまずい……。
私は力の入らない指でスマホを操作した。
『たすけて』
それだけ送ると、私は頭を垂れて目を瞑った。
…………。
「――悠貴! 悠貴!!」
私を呼ぶ声に意識が戻り、顔を上げた。そこには汗だくで泣きそうになっている梨香の顔があった。
「大丈夫!? 救急車呼ぶ!?」
梨香が私の背中をさすってくれている。
少し、気分がマシになった。
「……大丈夫。来てくれたんだ。ありがと」
「あんなの見たら誰だって来るよ。事故とかに遭ったんじゃないかって本当に心配したんだから」
「そういうんじゃないよ。ちょっと気分が悪くなって」
途端に梨香の表情が強ばる。おそるおそる尋ねてきた。
「もしかして、神咲さん?」
私は小さく頷いた。
「……彼氏と家に入っていくとこ見ちゃった」
「――――」
ぎゅう、と梨香が私を抱き締めた。その小さな体は私よりもずっと大きくて、あたたかかった。梨香のぬくもりを感じれば感じるほど気持ち悪さは消えていった。
ようやく歩けるくらいまで回復をしてから、梨香に付き添ってもらいながら家に帰った。
梨香は私の自室にまでついてきてくれた。まだ私の両親はどちらも帰ってきてなかったが、梨香が飲み物やタオルなどを持ってきてくれた。そのおかげもあってやっと私も落ち着いてきた。けど落ち着いてくると今度は自分の情けなさに気が滅入ってくる。
梨香と付き合いだして少しは変わってきたと思っていた。佐奈のことはまだ好きだけど、それでも梨香といることで徐々に忘れられると思っていた。
でも無理だった。
私はどうあっても佐奈のことが大好きだし、佐奈が誰かといちゃいちゃしているところを見ると平静ではいられなくなる。
梨香は佐奈の代わりでいいと言った。でも今は代わりですらない。ただ付き合ったフリをして自分を騙す為の道具にしているだけだ。
私は、隣で座ったまま私の手を握っている梨香に言った。
「……やっぱり別れようか。私達」
梨香は驚きすらしない。どこかでそう言われることを予期していたのかもしれない。静かに穏やかに言葉を返してくる。
「私のこと嫌いになった?」
「嫌いじゃないよ。でもこのまま付き合っても梨香を傷つけるだけだから」
「そんなの悠貴を好きになったときから傷ついてるよ」
「え?」
「だって好きになった相手にはもうすでに想い人がいて、私なんかが間に入れるような空気じゃなかったんだよ? 告白する前から振られて傷つかない子なんかいないよ」
「…………」
「だから私はもうどれだけ傷ついても平気。もし悠貴が神咲さんと恋人になれたとしたら身を引いたっていいと思ってる」
「梨香……」
好きな人が目の前で誰かと仲良くしているのを見ることがどれだけつらいことか嫌というほど分かっている。なのに梨香はそれでもいいと言ってくれる。傷つくのが平気な人間なんていない。それはただ傷ついても我慢しているか、痛くないと言い聞かせているかのどちらかだ。
「私の前では悠貴は我慢しなくていいの。神咲さんへの恨み事を言ってもちゃんと聞いてあげるし、神咲さんにぶつけたい衝動があるなら受け止めてあげる。私を神咲さんだと思って好きなことしていい。ほら、私って背格好が神咲さんと似てるから結構想像しやすいんじゃないかな。悠貴が神咲さんと二人きりでしたいこと、今しちゃってもいいんだよー?」
わざとおどけた調子で梨香が笑う。少しでも私の苦しみを和らげようとしてくれているのが伝わってくる。
「……そんなことしたら梨香がまたつらくなるよ」
「いいんだって。むしろ悠貴のつらさを分けてくれた方が私は嬉しい」
付き合ってまだ日は浅いが、梨香が私のことをどれだけ好きか、また尽くそうとしているかはよく分かっている。
梨香の想いの大きさ、あたたかさに触れれば触れるほど、私はこのままでいいのだろうかと懊悩してしまう。
私は今でも佐奈のことが好きだ。でもその好きと似た感情が梨香に対しても湧き上がってきているのを感じている。
苦しくて苦しくてどうにもならなくなったとき、私が助けを求めたのは誰だったか。私の弱いところなんてとっくに知られているからこそ、弱くて情けない私を梨香にさらけ出すのが恥ずかしくない。
けれど弱い私をずっと梨香に支えてもらうばかりではいけないとも分かってる。私がうずくまってばかりだと、梨香の想いに応えてあげることが出来ない。
だから――。
「……やっぱり、別れてほしい」
「…………」
「私なりにちゃんとけじめをつけたいんだ」
梨香が私に視線を向けてきたのが分かった。私は床の一点を見つめたまま続ける。
「それで全部終わったら、また梨香といちからやり直したい。私の都合で梨香を振り回してばかりで本当にごめん。でも、そうしないと多分、私は前に進めないから」
梨香が私の肩にもたれかかってきた。繋いだ手の指を絡ませて優しく力を込める。
「しょうがないなぁ。じゃあ別れてあげる。だから悠貴も、逃げないできちんと自分の気持ちと向き合ってあげてね。大丈夫。きっと想いは伝わるから」
「……うん」
この後お母さんが帰ってくるまで、私達は一言も喋らないまま肩を寄せ合っていた。
次の日の放課後、私は佐奈に話しかけた。
「今日さ、一緒に帰ってもらってもいい?」
「どうしたの急に? うん、いいよ。ちょっと連絡だけしとくから待ってて」
天気は先日と違いすっきりと晴れていた。夕方とはいえまだ空は明るい。
二人で帰り道を歩くのは久しぶりだった。並んで歩くだけで喜んでいる自分がいる。けど今日の目的はそれじゃない。大事なことを佐奈に伝えるために来てもらったのだ。
しかしいざ話そうとしてもなかなか言葉が喉から出てきてくれない。佐奈が「体調大丈夫?」とか「最近あんまり遊べてないね」とか投げかけてきてくれる話題に相槌を打っているだけでどんどん家が近づいてくる。
このままじゃ打ち明けられずに終わってしまう。焦りがどんどん積もっていく。口をわずかに開けては閉める。それを何度も繰り返した。
「――それで、私と一緒に帰りたいってのは何かあったの?」
佐奈が私に尋ねてきた。最近疎遠になりつつあった親友が突然一緒に帰ろうと誘ってきたのだ。何かを勘ぐってもおかしくない。
言え。言うんだ。私はカバンの持ち手をぐっと握り勇気を奮い起こす。
『自分の気持ちと向き合ってあげてね。大丈夫。きっと想いは伝わるから』
私はゆっくりと深呼吸をしてから。
「佐奈、実は私――」
…………。
……。
家から程近い小さな公園。その片隅のベンチで梨香が待っていた。
私は小さな歩幅で梨香に近づいていく。
「わざわざ近くで待っててくれたんだ。もし私が今日告白しなかったらどうするつもりだったの?」
「絶対するって確信してたから」
「そっか」
私は梨香の隣に腰を降ろす。
「フられちゃった」
「……うん」
「でも佐奈はね、それでも私と、親友でいてくれるんだって」
佐奈にどうやって想いを告げたかはもう覚えていない。ただ感情のままに佐奈を好きなこと、これまでずっと想い続けていたこと、誰よりも佐奈のことを愛してることを伝えた、気がする。
私が全部を言い終わると佐奈は最初に『ありがとう』と言ってくれた。そして『ごめん』と。
「あはは、フられて悲しいのにさ、なんかホッとしちゃった。これで佐奈に気持ち悪いとか言われてたら立ち直れなかったよ。うん、喉の奥にひっかかってた魚の骨が取れたみたいな感じ?」
「……公園、誰もいないね」
「え、あぁそうだね。子供はもう帰ったんじゃない」
「だから、泣いても誰にも見られないよ」
「…………」
梨香のその一言で、私の目から涙があふれ出てきた。これまでずっと、ずぅっと我慢してきたものが堰を切ったように滂沱と流れていく。悲しいから、つらいから泣いているわけじゃない。言葉で言い表すことができない何かのせいで、ただ涙が止まらないのだ。
梨香が私を抱き寄せた。その胸の中で私は声をあげて泣いた。泣きじゃくった。
ここまで大声で泣いたのは物心ついてから初めてかもしれない。梨香は私が泣き止むまで静かに私の背中を撫で続けてくれた。
…………。
日はすっかり傾き、辺りに薄闇が広がりつつある。私と梨香は二人並んで座ったまま何をするわけでもなくぼうっと無人の公園を眺めていた。
暗くなるのは歓迎だ。泣き腫れた目を梨香に見られずに済む。いまさら手遅れではあるが、泣いているときは平気でも泣いた後は恥ずかしい、ということはそれだけ精神が元に戻ったのだろう。
そうなると、もう一つやらなきゃいけないことがある。
私は握った手を膝の上に乗せてぽつりと呟いた。
「佐奈の代わりなんかじゃなく、皆木梨香として私と付き合って欲しい」
さっきは佐奈に告白するのにあんなに躊躇したのに、梨香が相手だとすらすらと言葉が出てきた。
この違いはなんだろう。梨香に対しては気兼ねする必要がないというのもあるが、それ以上に私の心は落ち着いていた。こんなにも穏やかな告白があることに驚いた。
「うん。こちらこそよろしくお願いします」
まるで日常会話のように梨香もごく普通に返事を返してくれた。
佐奈と一緒にいるときに感じる高揚とは違い、梨香は隣にいてあったかいお茶を飲むような心地よさ、安堵感がある。
もしかしてこれが、好きになるということなのかもしれない。
なんて言ったらあまりにも節操がなさすぎるだろうか。
まぁ誰に何て思われようがどうでもいい。今の私には梨香が側にいてくれればそれだけでいいのだから。
◆ ◆
それは私が悠貴と最初に付き合い始めてすぐのことだった。
昼休みにお手洗いから出てきた私の元に神咲さんがやってきた。
「皆木さん」
「な、何か用ですか?」
てっきり悠貴が急に神咲さんから離れて私のところに来るようになったので何かしらの文句を言われるのでは、と警戒した。
神咲さんは私を窓際に連れていき聞いてきた。
「皆木さん、最近悠貴と仲良いよね」
「まぁ、はい」
「悠貴、私のこと何か言ってた?」
「いえ……特には」
本当は全部事情を知っているがそんなことを言うわけにもいかない。
神咲さんは私の顔をじっと見つめてきた後、両手を取って握り締めた。
「皆木さん――悠貴のこと、お願い」
何をお願いしているのか何故私に言うのか。神咲さんの目を見返してその理由が分かった。
神咲さんは悠貴の気持ちに気付いている。気付いた上で応えられないと知っているからこそ、私に悠貴を支えて欲しいとお願いしているのだ。
悠貴が想いを伝えられずに苦しんでいたように、神咲さんもまたそれに対して明確に答えを出せずに苦しんでいた。
なら、私に出来ることはひとつしかない。
「……うん、わかった」
私はしっかりと頷いた。
「神咲さんの分まで、喜島さんと仲良くするから」
神咲さん以上に悠貴のことを愛する。それが悠貴のためにしてあげられる唯一のこと。
私の言葉に神咲さんが安心したように笑い、「ありがとう」と言った。
不器用な二人だと思った。互いに今の関係を崩したくないからあと一歩が踏み出せない。
私が口を出すのは簡単だ。でもそれじゃあ本当の意味で悠貴が前に進めないと思う。だから悠貴が自分の意思で進もうと決めたとき背中をちゃんと押してあげよう。それが仮初めとはいえ恋人である私の役割だと思うから。
いつか。いつか二人が以前のように仲良くなった後、みんなでどこかに出掛けられたらいいな。
それが遠くない未来の出来事でありますようにと願い、私は教室に戻った。
終




