01
――真っ赤な海だ。
その光景を見た時、リーニャは真っ先にそう思った。
じりじりと自分の頬を焦がす存在を認めたくなかったからかもしれない。
どうしてこんな事になってしまったのか、理解できなかった。ただ呆然と座り込み、目の前に見える海が波となって自分を飲み込むのを待つしかないと思っていた。
「おい」
そんなリーニャの後ろから、低い男の声がかかる。
咄嗟に反応出来ず、空耳かとも思ったが、ぐいっと右肩を掴まれて、その存在が現実に居るのだとようやく気付いた。
ぼんやりとしたまま後ろを振り向けば、そこに居たのは見たことのない、人とは思えないくらい容姿の整った男だった。
褐色の肌に血のような紅い髪。三白眼の中に見える虹彩はなんと金色だ。どこか高貴な雰囲気を漂わせている割に、その男の上半身は裸で、髪と同じような紅い刺青が入っている。下は黒いゆったりとしたサルエルのようなズボンを履いており、その姿がいやに似合っていた。
こんな恰好をした人は今まで見たことがない。今の状況と合わせて考えても、何もかもが不自然だ。もしかしたら人ではないのかもしれない。
まさか、悪魔……とか?
リーニャが現実逃避のような考えに没頭していると、男が口を開いた。
「リーニャ」
「え?」
なんで、私の名前を知ってるの?
「リーニャ、来い」
差し出された手を、リーニャは無意識に取っていた――。
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空が白み、朝の支度を始めた煉瓦造りの街並みを、リーニャは駆けていた。
肩下まで伸びたため、一つに括った亜麻色の髪が走る速度に合わせてユラユラと揺れ、赤茶色に染められた麻で出来た質素なワンピースからは日に焼けた脚が見え隠れする。
もしもリーニャがそれなりの家の出の者であれば、年頃の娘がはしたないと怒られていたかもしれない。
しかしリーニャは平民で、孤児だった。十二歳になって孤児院から独り立ちをした彼女をそんな理由で怒る人間など、雇い主である女将夫婦ぐらいである。その人達も脚を見せて走ったぐらいでは怒る事などない。
大きさの不揃いな石畳を踏みしめ、少女リーニャが目指しているのはその女将夫婦が営む食堂『雄鶏亭』。じっくり煮込んだスープが売りの庶民向けの小さな店だ。
「おはようございまーす!」
雄鶏が目印の火造りの看板の下、ところどころ傷のある木製の扉を元気よく開けると、扉に着けた鈴がチリンと良い音を出した。その音に惹かれるように中で働いていた男女が振り返る。
「リーニャ、おはよう。今日も朝から元気だねぇ」
開店前の準備で机を拭いていた店の女将、ミランダがいつもと同じカラッとした笑顔を浮かべて迎え入れてくれ、カウンターでは食材の下準備をしていた料理人の旦那さん、ハリーも切り途中と思われる野菜を片手に笑って「おはよう」と挨拶を返してくれる。休みの日以外繰り返される、いつもの光景だ。
二人は孤児であるリーニャを迎え入れてくれただけではなく、我が子のように可愛がってくれる。リーニャにとってはかけがえのない家族のような存在だ。
「そりゃもう、私は元気だけが取り柄だからね!」
「はっはっは、そんな事ないだろ」
「そうそう、リーニャはうちの店の看板娘だよ。ちょっと見た目は地味だけどねぇ」
「上げて落とさなくても地味だって事はわかってますぅー」
女将さんの言葉にリーニャは唇を尖らせながらソバカスの散った自分の頬を両手で擦った。
「はーぁ、せめてこのソバカスがなかったらなぁ……」
「はっはっは、ソバカスがあってもリーニャは可愛いよ。それに、まだ十四だろう? ソバカスなんて大きくなったら消えるさ」
「えへへ、そうですかね?」
親父さんのフォローに照れ笑いを浮かべながら、リーシャは石と煉瓦で造られたカウンターの内側へと入る。親父さんが使っている調理台の隣、火を扱う用に円形に切り抜かれた石台に立つと、胸の前に両手を揃えた。
「さ、グレン。お仕事だよー」
リーニャの声に、胸ポケットから紅い蜥蜴がぬるりと現れた。
蜥蜴のグレンはリーニャの手の上に乗ると、円形の穴へと飛び込んだ。するとグレンが飛び込んだ円形の穴から火が溢れた。リーニャはその上にさっとフライパンを置く。これがリーニャがこの食堂で雇って貰えた理由だった。
この世界には、守護者という者が存在する。
守護者とは精霊界、幻獣界、妖魔界からこの人界の魂に寄り添って生まれてくる人とは違う異界の存在の事だ。その存在に寄り添って貰える魂はおよそ百人に一人の割合だと言われており、その幸運を手に入れた人は様々な場所で優遇され、将来安泰……だと言われている。だが、どこも差別というものはあり、そこには守護者の能力が高ければ、という注釈が付く。
守護者にも下位から上位、更には神位という位が定められており、下位の守護者達は知能が低く、しゃべる事が出来ない者がほとんどで、基本的な能力と言えば、コップ一杯の水を出すとか、火打石の変わりになるとか、小さな穴を空けるとか。まぁ、ちょっと便利かな、と思えるレベルのものだ。
リーニャの守護者であるグレンもそんな下位の守護者だった。
(グレンが中位の存在だったら一緒にお喋りも出来たんだけどなぁ……)
リーニャの周りには低位の守護者を持つ庶民しかいないからわからないが、聞いた話、中位以上の守護者だったらどうやら念話というもので意志の疎通が出来るらしい。
ずっと一緒に居るのだから、グレンが何を言いたいのかは視線でわかるようにはなっているが、正確なグレンの気持ちがわかる訳じゃない。それがちょっぴり寂しい。
リーニャは気持ちを切り替えるように食材の準備をしているハリーへと顔を向けた。
「親父さん、今日のメニューはなんですか?」
「今日は朝食はオムレツとベーコンと野菜のスープ、あとこないだリーニャが作ってくれたポテトサラダにしようかと思うんだが……、また手伝ってくれるか?」
「えっ、私がまた手伝っちゃっていいんですか?」
リーニャは目を瞬かせた。ハリーにとって厨房は大事な商売道具だ。リーニャのような子供が手を出すのは良くないのはわかっている。
以前手伝ったのは大量のジャガイモを馴染みの商人に押しつけられたからだ。
どうやら発注数を間違えたらしい商人は雄鶏亭以外の馴染みの店にもお願いして回っていた。
だがジャガイモの料理は庶民には馴染みがありすぎて人気はない。簡単に作れてしまうために自分の家で食べるので満足している人が多い。
そこでリーニャが思い出したのがポテトサラダだった。
サラダを好きじゃない人もこれなら食べられるのではないか、と思ったのだ。肉の付け合せにもいい。
目新しい料理にジャガイモはあっという間になくなってくれた。
「いいっていいって、リーニャのひと手間があると客も喜ぶしな。また新しい料理がひらめいたら教えてくれよ」
「わあ、ありがとうございます!」
リーニャは自分が考えた訳ではない料理に少し罪悪感が募ったが、それを口に出して言う訳にはいかない。
(まさか前世で食べたことがあって、なんて言える訳ないよね……)
リーニャがそれを思い出したのは、孤児院で食糧の足しにと栽培していたサツマイモによく似た味をした甘露芋を掘り出した時だった。
――ああ、スイートポテトが食べたいなぁ。
その時のリーニャは甘いものに飢えに飢えていた。
何しろこの世界、砂糖などの甘い物の値段がそれなりに高い。平民が手が出せないほどではないが、ごちそうに割り振られるくらいには高い。孤児に食べられる訳がなかった。
その中で甘味を少しでも味わえる甘露芋は孤児達にも人気だったが、甘味を味わえると言っても所詮は芋。さすがに何年も食べているとその味にも飽きてしまうし、チョコレートや砂糖に勝てる訳がない。
そこで思い出したのがスイートポテトの存在だった。
断片的に思い出される、親戚から送られた甘さ控えめ過ぎるサツマイモ。焼いても蒸かしても微妙なそれをリーニャはお菓子にすることにした。無理やり糖分を増やせばさすがに美味しくなるだろうと考えての事だ。
他にも色々な種類の選択肢はあったが、元来料理にそこまでの興味があった訳ではない。その中で材料が最低限で済み、そこそこ簡単で、そのお菓子が好きかどうか。それだけだった。
裏ごしするのが酷く面倒だった記憶はあれど、他は割と簡単だ。あの時の芋は甘味が果てしなく控えめだったけれど、甘露芋はそれだけで十分な甘さがある。砂糖なしでもきっと美味しいだろう。
そんな事まで考えて、リーニャはふと、あり得ない知識に驚いた。
そこから芋づる式に思い出される前世の記憶。
活字中毒で、三十代後半になっても独身で、ある日突如死んでしまった一人の女の記憶。
家族や友達の顔はぼんやりと、他の記憶はすべて本だ。興味の出た話をとことん調べ、興味がなくなれば次の本へと移動する。特に別の世界の物語が好きだった。
自由だけど不自由な小さな世界から抜け出せる夢の世界。本の中にはそれがあり、その世界に自分が旅立てたのなら、と何度となく夢想する。そんな夢見がちな女だった。
しかし現実として別の世界に、しかも守護者なんていうあり得ない存在の居る世界に転生し、孤児となった事を考えると、やはり夢というものは夜に見るから楽しいものだというのをリーニャは齢十歳にして実感してしまった。
小さな畑を自分より小さな子達と一緒に耕し、収穫し、食べる。聞かされるのは守護者を遣わしてくれた神への感謝と、孤児院を運営するために寄付をしてくれた貴族や王家への感謝の言葉ばかり。その寄付のほとんども恐らく職員の懐に入っている。暴力行為に走らないだけマトモだと言えない事もないかもしれないが、孤児たちと違って肌艶の良い職員を見る度、リーニャの純粋だった目は荒んでいった。
そんな中でグレンの存在だけが救いだった。
生まれた時から一緒に居るグレンという火蜥蜴の守護者。低位であるためそんな大きな力はないが、リーニャの事を第一に考えてくれて、ずっと一緒に居てくれる。大切な親友だ。
本来であれば守護者を持つリーニャはもっと別の、良い施設の孤児院へ移動されてもおかしくはなかった。リーニャも実は少しだけそんな展開を期待したが、グレンはリーニャ以外の人間の前に姿を現す事がなかった。そのため、その孤児院でリーニャが守護者持ちだと知る者はおらず、結局リーニャは独り立ちさせられる十二歳になるまでその孤児院で過ごす事になった。
前世を思い出し、守護者持ちは大切にされるという話を聞いた時、リーニャは最初グレンを恨んだ。
なぜ守護者ならば自分を助けてはくれないのかと、なぜもっと良い施設に連れて行ってくれないのかと、グレンが姿を見せてくれたのなら、もっと違う環境があったのではないのかと。
けれど、今となってはグレンの行動が正しかったのだと知っている。
この世界で魔法と呼ばれる不思議な力を使えるのは守護者だけだ。
あんな環境でグレンの存在を見せたりしたら、恐らくグレンを種火として延々と扱き使われただろう。火だってタダではない。
グレンは現世でいうコンロのようなものだ。どこにでも持ち運びが出来て、強弱をつける事もお手の物。しかも燃料いらず。
低位であれば低位であるほど知識というものがなく、動物よりは頭がいい、というレベルになってしまう守護者は、守護者を持たない者達からしたら便利な道具のように見えてしまうのだろう。
もちろん守護者に選ばれた主がそんな行いをすれば、すぐに守護者から縁が切られ、永遠に守護者を持つ事は叶わなくなるが、主を盾に守護者が脅され、無理やり使役されてしまうという事もある。バレた場合はそんなことをした相手は死罪だが。
リーニャとグレンの場合、その可能性があったのだろう。グレンは賢かったのだ。
大量の蒸した芋を潰し、前世よりも二倍ほど大きい卵を割ってマヨネーズもどきを作り、そこに人参やキューリに似た野菜を混ぜ込む。これぞまさにポテトサラダもどき。
作り置きできるものは作り置きし、あとは注文されるたびに作っていく。大体の下準備が終わった頃、ミランダが外に立てかけておいたクローズという看板をひっくり返した。
「今日も一日よろしく頼むよ!」
「はい!」
この時、リーニャは幸せだった。
ごはんもしっかり食べられるし、お給金だってもらえるし、休みだってある。前世の女が読んでいた本にも興味はあったが、平民がそんなものを読んだところでお腹の足しにはならないことはわかっていた。
リーニャに出来る事といえば、時折思い出した料理をハリーと試行錯誤して作ってみることくらい。その料理だって人気が出たり、出なかったりするのだ。物語のように何事も上手くいくはずがない。リーニャはただ毎日を穏やかに、グレンと一緒に生きられていればそれで幸せだった。
いつか、前世でも経験できなかったような恋をして、その相手と結婚をして、子供を産んでみたい。そんなささやかな夢を見ていられれば幸せだった。
だが、そんな夢は、ある日たった一晩で崩れ去ってしまった――。
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「なにが、おこったの……?」
「さぁな」
「あなた、だれ?」
「ないしょ」
「わたし、どうなるの?」
「安全な場所に移動すんだよ」
「お……っ、おかみさん、たちは……っ?」
「大丈夫だ。今は寝てろ」
リーニャは瓦礫の中、一人の男に抱えられ、どこかへと運ばれながら、現実から逃れるように目を閉じた。