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蛇と環

作者: 札幌太郎

 昼間なのに、太陽に丸い影がぽっかり被さって、夜みたいに暗くなることがあった。

 直に見ると危ないよ、という兄に倣って僕も薄布越しにその影が重なった太陽を見る。影の周りにはいつも通り燦燦と照る太陽が在って、それが真っ白な円のように見えた。

「兄ちゃん、あれって何なんだろう」

「あれはな、天に上った蛇だって。ばあちゃんが言ってたんだ」

「蛇?」

 死んでしまった人は星になるというけれど、蛇は死んでしまったら、ああなるのだろうか? 僕は影を縁取る真っ白な光の輪を見ながら訪ねた。

「そう、蛇。なんでも、こんな話があってさ――」



 いつからそうなってしまったのか。今から三回ほど前の満月の日からだっただろうか。

 その日、僕はいつものように、ただ明日も生きるために餌を捕ろうとしていた。草の根を分け、音もたてずに地を這う。そうして目星をつけていた餌――ネズミの一家を見つけたのだった。朝のうちに少しこの辺りを動いていた時、偶然巣穴を見つけたので、今日の飯は此処で摂ろうと決めていたのだ。

 その時は丁度、母親ネズミが外からミミズを捕ってきて、子供たちにそれを与えようとしていたところのようだった。

 親ネズミは給餌に集中しており、背中は無防備だ。僕は這う速度を上げながら、親ネズミに狙いを定めて……がぶり。大口を開けて親ネズミを一呑みにしてやった。体内でもがく感覚がどんどん腹部へと下っていき、やがておさまる。慣れた食事の感覚に、自身の生命を感じる。今日も僕は生きているのだ。

 さて、次は。僕は巣穴でミミズを持ったまま固まる八匹程の子ネズミを睨む。こいつらはどうしようか。今は腹が一杯で食う気にはなれないが、噛み殺して、明日以降の食事にしようか。ぺろりと舌なめずりをした、その時。

「おかあ、さん」

「おかあさん」

「かあさん!」

 一匹が泣き始めると、わんわんと呼応するように二匹目、三匹目、と続いて泣き始めた。それが八匹ともなると、喧しくてしょうがない。耳を塞ぐ脚のない僕は身じろぎをして頭に響くその声を和らげようとする。この声は一体、何だ?

「ねえ、おかあさんは?」

「おかあさんはどこにいったの?」

 事実を知らない純粋なことば。純粋な瞳。うっかり、僕はその瞳と自分の瞳を合わせてしまった。彼らは自分たちの親がどうなったのかを理解していないのだ。真っすぐこちらを見つめる瞳と、繰り返し母を呼ぶ声が耳朶に反響し、僕はもう辛抱堪らなくなってその場から大急ぎで逃げ出してしまった。

 ……今まではそんな事はなかったのに。僕はその日から急に、他の動物のことばが解るようになってしまったのだ。

 その後、腹に押し込んだ親ネズミをゆっくりゆっくり消化しながら這う草の根の道は、とても喧しかった。

「去年はナナカマドの実が落ちるのが早かったよなぁ」

「今年はあまり寒くないと良いんだけど」

「この辺りの稲は不味い、もう少し川の方へ行くと美味いのが残っているぞ」

 満月の夜、あふれんばかりの声、声、声。普段はもっと静かで、警戒すべき猛禽の声や草原を撫ぜる風の音ばかりが目立つのに。雀やイタチ……ありとあらゆる動物の声が聞こえていた。

「――うるさい! 少し黙ってくれ!」

 耐えきれず、満月に向かって僕は咆哮する。しかし、その叫びは他の何者にも届いていないようで、依然周囲の喧騒は鳴り止まない。その喧騒の中に自分の叫びもこだまして、音の海に飽和して、いつしか霧散する。喧しさの中、自分の声が消えていくその過程に、普段の静寂の夜には決して存在しなかった孤独のようなものを感じていた。

 昼夜問わず鳴り続ける他の動物たちの声に気が狂いそうになりながら、三日後。先日食べたネズミの腹持ちもここまで、僕はまた空腹感を覚えていた。このところ餌場探しもしていなかったので、この空腹はなかなか苦しいものになりそうだ。

 いや。餌場探しをしていなかった訳ではない。正確に言えば、見つけた餌場での食事を断念し、あそこは餌場ではないと自分に言い聞かせていただけだ。

 断念した理由には、やはり聞こえてしまう他の動物の声が関係していた。

 例えば、小鳥が地を歩いていたとしても、その鳥のさえずりから、彼らが「命」に見えてしまうのだ。

「明日はどこに行ってみようか」

「ここから少し離れたところに美味しそうな赤い実が生っていたよ」

「あの子が帰って来ない……食べられちゃったの、かな……」

 今まで単なる餌として見て、食べていたものたちが急に「命」に見えてきたのだ。彼らも自分と同じように、日々を過ごし、餌を食べて生を実感し、いつ外敵に襲われるのかと恐れている。僕は、僕と全く同じように明日も生きたかった「命」を食べていた。声が聞こえるようになったせいで突き付けられたその事実が、捕食行為をためらわせた。

 明日も、行ってみたいところがあったのに。明日も、養い育てる子供が居たのに。明日も、今日と同じ日が続くと思っていたのに。そんな明日への期待は食べられてしまうことによって、いとも簡単にへし折られてしまう。もしも僕が僕に食べられる側だったら、なんて考えると、とてもじゃないけれど彼らを食べる気なんて起こすことは出来なかった。

 それでも、そんな意志とは別に本能は正直だ。ぐうぐうと腹は鳴り、早く腹にものを詰めろと急かしてくる。早く「命」を奪えと急かしてくる。

 必死にその食欲を抑え込み、さらに四日も経った頃、鳴り止まない動物たちの声と空腹でいよいよもって僕はおかしくなりはじめた。腹が減った、腹が減った。そんな本能が体を動かしては、「命」を奪いたくないと薄っぺらい理性が蛇行を阻む。そうして二進一退を繰り返し、やがて川沿いにあるカエルの住処にたどり着いてしまった。

 草を分ける音と、湿り気のある着地音。二匹のカエルがやってきたようだ。

「もうじき卵からちびっこが産まれるかなぁ」

「そしたら、このあたりもまた賑やかになるね!」

 ――餌だ。

「違う、あれは命で、僕と同じように生きたくて生きたくてたまらない」

 口を大きく開いたところで慌てて思い直す。彼らは生きたくて仕方がない「命」だ。でも、僕も生きたくて仕方がない「命」だ。苦しいほど同じで、そこに優劣や優先順位などなく、等しく自らを明日へ明日へとつなげたいものたちだ。だから、だから、僕は。

 がぶり。

「――ア」

「ぐえ……ふ……」

 ……僕だって、生きたいんだ。彼らが子供見る為に欲しかった明日を奪ってでも、僕だって生きたいんだ。立て続けに呑み込んだカエルたちの断末魔が耳にこびりついて離れない。それが、生命を奪った実感を一層強くする。

 僕は殺してしまった。自分のために。自分が生きたいがために。他に生きたかった誰かを殺して食べて、のうのうと明日を歩むのだ。

「どうすれば、よかったんだよ……」

 僕は川面に浮かぶ沢山のカエルの卵に向かって嘆く。僕が涙を流す動物ならきっと、大粒の雫が目から零れ落ちていただろう。自分の欲求のままに喰らい、奪い、満たされてゆく食欲に、思わず食べた「命」を吐き出してしまいそうになるくらいの罪悪感と本能的な満足感を抱えていた。


 そうして、食欲が満たされると同時に湧き上がる罪悪感を抱え続けながら、僕は今日を迎えている。

 のうのうと今日を迎えて、大きな樹の根元でうずくまっている。

 最初の内こそ腹が空けば、本能に突き動かされるがままに捕食し、罪悪感に駆られる、を繰り返していたが、とうとう心が弱り果てて食べる気力さえも起きなくなってしまったのだった。どうして生き物は奪わなくちゃ生きていけないのだろうか。考えるのはそんなことばかりだ。

 自分が生きるために他の生きたがっている「命」を奪わなくてはならない。そうやって自分が食べるためにも、縄張りを作り、同じ蛇同士でも場所を奪い合わなくてはならない。生き物は奪ってばかりだ。皆同じく明日のために生きているのに、お互いにその明日を奪い合ってばかりだ。僕はどうしようもなく悲しくて、けれど涙を流す機能は無くて、ただもぞもぞと、とぐろを巻く。

 そうして不意に鼻先に自分の尾が触れた時、何か図ったかのように急に空腹感が湧いてきた。

 そうか。僕が、僕を食べれば良いのか。それならば僕は何も奪わずに済む。身体全てを呑み込むころには、もう奪う苦しみから解放されるだろう。

 がぶり。僕は美味しくなかった。けれど、これで楽になれるなら。ぐいぐいと自分の腹に自分の身体を押し込み、僕は輪のような姿になっていた。

 そうしていると、不意にざくりと僕でふくれた腹に何かが刺さる感覚があった。続いて、ふわりと体が持ち上がる感覚。ああ。これは。

 辺りの様子を見て僕は状況を察する。僕は鷹の爪に今握られ、空を飛んでいる。行く先は解らないが、きっと、この鷹の巣だろう。そうだ。僕は食べられるのだ。

「……お前の分まで、私が明日を生きるからな」

 ようやく死という安寧を向かい入れられると思ったところで、鷹が不意に呟いた。彼女は僕が他の動物の声が聞こえると知っているとは思えなかったから、きっと独り言のようなものだったのだろう。けれど、僕はその一言にようやく答えを見た気がした。

 奪う奪われるのではなく、大きな流れを繋げているのかもしれない。

 喰らうものは明日を見る為に「命」を喰らい、その屍を背負いながら生きる。喰われるものは少しでも多くの同族が明日を見られるようにと、沢山の子孫を残す。喰う側も喰われる側も覚悟があり、双方が織りなす大きな流れの中で一つの「命」として明日へ明日へと進んでいるのだろう。

 それはきっと、生き物が生まれた時から本能的に知っている物で、僕はきっと、あの満月の日に知恵を得てしまった代償に忘れてしまった物だったのだろう。

「……うん、僕のぶんも、明日は頼むよ」

 届くはずはないと思いつつも、そんな言葉を鷹にかける。僕を食べて、明日を生きてほしい。

 そう願う一方で、やっと気づけたこの大きな「命」の流れを、僕はもう少し見ていたい気持ちもあったのだった。



「――そうして、『命』がめぐる様を見る為に、その蛇は食べられた後、太陽になって、ああやって何年かに一度この大地を見渡すんだってさ。円になっているのは、最後に蛇が自分の尻尾を咥えていたから、だそうだ」

「……なんかよくわかんないや」

 僕は兄が祖母から聴いたという話に、率直な意見を返した。

「ちょっと難しかったかもな。俺も正直、よくわかっちゃいないさ」

 話し始めた兄自身も、そういってへらりと笑う。徐々に影がずれ、陽光が戻ってきて、笑う兄の白い歯を照らしていた。

 そうしたころ、背中から母が昼食ができたと声がかかり、僕達は家に戻った。

 その日の食事は、今までの「料理」という見え方ではなく、全て今日を迎えたかったはずの「命」なんだ、と思い、なぜだか流れた涙と一緒に、すこししょっぱくなった食事を僕は残さず食べたのだった。


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