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藍色に熔ける  作者: 藍澤ユキ
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y:

 僕が出かけようと部屋の扉を開けると、そこには才谷さんが座り込んでいた。朝の柔らかい日差しの中で、家から締め出された子どものように、膝を抱えて小さくなっていた。なので、いつもと変わらない調子で僕は声をかける。

「おはよう。今日はいい天気だし、さらりとしていて、気分はまぁまぁ、ってとこかな」

「……おはようございます。あと……ごめんなさい」

 才谷さんは座り込んだままま、視線を上げずにもごもごと呟いた。どうやら自覚はあるらしい。

 そんな才谷さんに僕は努めて明るい声音で尋ねた。

「そのごめんなさいは、どこにかかっているのかな?」

 すると、才谷さんは拗ねたように唇を尖らせながら視線をさらに逸らす。長い睫毛が瞬きで揺れる。

「……全部です」

 才谷さんの綺麗な髪の分け目に視線をやりながら、僕は慎重に続けた。

「僕は……才谷さんに自宅を教えた覚えがないんだけどね。記憶違いかな?」

 そう。普通に考えると才谷さんは僕の自宅を知らないはずだった。なので、僕はこの状況にもっと驚いていいはずなのだが、意外にすんなりと受け入れていた。

「なので……それもごめんなさい」

 僕が不都合な事実を出してみせると、膝に顔を埋めながら、才谷さんはいまにも消え入りそうな声でそう答えた。その傷ついたような儚げな様子に、僕の中で小さな嗜虐心が頭をもたげる。

「朝駆け? 張り込み? まぁ、なんにしても待ち伏せってのはいただけないね」

 冷たく突き放してみる。そのぐらいは構わないだろう。最近の才谷さんの行動は、常軌を逸しはじめている。

「その……どうしても顔が見たくて……」

 僕はもう、以前の仕事をしていなかったので、普通にしていると才谷さんと顔をあわせることはなかった。

 だからだろう。才谷さんはしびれを切らしはじめていた。そして、僕はそれに気がついていた。

「け、気配だけでも感じられたら帰るつもりだったんです……」

 もう、まともさを失いつつある才谷さんは、顔を真っ赤にさせながら、必死に弁解をする。

 でも、そんな才谷さんが僕は嫌いではなかった。いや、むしろ、以前よりも好意的に感じていた。可愛らしいだけじゃなくなった才谷さんは、とてもリアルな存在として僕の興味を引く。滲み出てしまう感情や欲求を、押し殺そうとしながらも抗えない。そして、追い詰められて開き直ってしまう。

 そんな才谷さんを、とても人間的だと僕は感じる。僕が失ったなにかが、そこにはあるように思えてならない。

「今日は会社じゃないのかい?」

 才谷さんのカジュアルな装いを視界に捉えつつ、僕は問いかけた。才谷さんはいつだって会社では、かっちりパンツスーツが信条のばずだった。

「きょ、今日は……お休みします」

 僕は最低だ。痛みを知っているからこそ、他人には優しくできるというのが人間的・道徳的な美しさのはずだが、僕は自分よりも憐れな人を見つけて、自身の心の平穏としている。

 過剰な憐憫は人をこんなにも歪めてしまうのだ。自分も他人も。

 悲しみや無気力に浸っている時間が長ければ長いほど、元の世界への復帰は難しくなる。それに、なんといっても、人はすぐに慣れてしまう。恐ろしほどに順応性が高い。辛い日々にも、空虚な時間にも、すぐに慣れてしまうのだ。なんの問題も感じなくなってしまう。麻痺していく。戻れなくなっていく。だから、残酷にだっていくらでもなれる。

 まともさを手放してしまったのは僕の方だ。

「才谷さん。朝食はまだ食べてない?」

 僕は膝を抱くようにして蹲る才谷さんへ手を差し出した。

「……はい」

 才谷さんはちらりと視線を上げるとそう答えた。その瞳に期待の色が浮かんでいるのがわかる。一瞬、口にするのをやっぱりやめようかという思いが頭を過ぎったが、考え直す。そんなにいじめるのも本意ではない。

「じゃあ、一緒に食べに行こうか。マフィンの美味しいカフェがあるんだ」

 すると、才谷さんは溢れるような完璧な笑顔をして見せた。そう。これを引き出したかった。名状しがたい満足感がやってくる。

「……うん」

 才谷さんは小さく、でもしっかりと頷いて顔を上げた。

 僕はいつか愛想を尽かされるだろう。

 才谷さんの完璧な笑顔を見ながら、身体を巡る満足感のどこかで僕はそんなことを思う。

 僕には才谷さんに想われる資格がない。でも、ここから出ていけるように、才谷さんの背中を押すのが僕の役割のような気がする。

 才谷さんは僕の差し出した手をとって立ち上がると、はにかむようにまた微笑んだ。

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