インポリス
トーマ君と出会ったきっかけは、つくしちゃんの友だち──しずりちゃんが、ある夏の日に行方不明になってしまったことから始まる。
しずりちゃんは、パジャマのまま森の中で倒れているところを発見された。命に別状はなかった。ほぼ丸一日行方をくらませていたにもかかわらず、しずりちゃんは話をきく大人たちに対して、何も憶えていません──の一点張りで。何より不思議だったのは、しずりちゃんが発見された場所は、自宅から丸一日かけて歩いたところで、到底辿り着けない山奥だったという。
そのしずりちゃんが、事件後、家へ遊びに来ていたとき、私に訊いた。
──トマソンをご存知でしょうか。
しずりちゃんによると、展示するかのようにきちんと保存されている、しかし存在理由のよくわからないもので、漢字だと「超芸術」と書くらしい。
行方不明だったとき、しずりちゃんは──多分夢を見ていたという。正直なところ夢だったのか、現実だったのかは、よくわからないらしい。
純粋に昇り降りするだけの階段。高所にあるドア。壁から突き出たノブ。見たことのないデザインの高過ぎる標識。切断面にブリキを被せて保護した電柱。
それは、トマソンが蔓延る世界を彷徨う夢だった。
どうして誰にも話さなかったことを、私に話してくれたのか尋ねた。
──何か、意味があることだと思えたので。
スカートを握りながら、俯きながら、上目遣いに。
しずりちゃんは、そう言った。
紺色のタイツが、夏なのに暑そうだったからなのか、印象に残った。
しずりちゃんの言葉を手がかりに、私とボスとカエル君は、十朱市内のトマソンを探した。そして、その一部が一つの地下壕へ続く入口の目印になっているのだと知った。
トーマ君とは、そこで出会った。
トーマ君は、しずりちゃんの件──元からあった謎の地下壕をトーマ君のセンスでリフォームした結果、素人目には何が何だかよくわからない空間に、しずりちゃんが迷い込んでしまったこと──について、意図的な仕業だったと説明した。活きの良い、血の通った負力を、平和的に採取するにはこれが良い──そう、判断したと。
話の通じないギノーではなさそうだった。だから、交渉することにした。
──この場所を取り壊せとは言わない。出て行ってほしいとも言わない。ただ、人に迷惑はかけないでほしいの。恐怖がほしいだけなら、本心では人を傷付けるのが厭だっていうのなら、これで大丈夫じゃないかな。
言って、私が見せたのは、辞書くらいのサイズの箱いっぱいに詰めたバラ色。刻みの粗いタバコの葉っぱ。兵主部の報恩と呼ばれる、リジットテラーのひとつだった。
リジットテラー。簡単に言うと、ギノー専用の回復アイテム。
広い意味では、負力の代わりとなるものなので、その種類は様々なのだけれど、有名なタイプを挙げるなら、ヒヒイロゴケをタバコの葉に加工したものだろう。といっても、どこにあるヒヒイロゴケでも良いわけではない。一般に心霊スポットやパワースポットと呼ばれる、謂れのある土地から採ったものを使うのだ。そういった土地のヒヒイロゴケには、訪れた人の畏怖心や恐怖心が染みついている。
そして、この兵主部の報恩は、リジットテラーの中でも貴重なものらしい。カエル君たちがどんどんくれるものだから、私はそんなふうに思っていなかったのだけれど、ボスが言うには質も上等で、他にはない豊かで刺激的な風味なんだとか。
作り方としては──まず、カエル君が謂れのある土地に生えるヒヒイロゴケを食べる。一定量食べると、カエル君の膚がバラ色に染まる。兵主部の報恩とはそれを削り出したものなのだ。
このとき、削り取るのが第三者であってはならない。カエル君が恩を込めて、贈りたい相手を想いながら削ることで、初めてそれは兵主部の報恩になる。無理矢理カエル君から削り取ったり、削り取らせたりしたそれは、酷く泥臭くケダモノの毛を磨り潰したような味がするという。
今日は挨拶でこれだけ持って来たけど、足りないなら用意するって伝える私に、
──もし、俺がその案を蹴ったら?
何故か、トーマ君は頬を引きつらせていた。
このとき、トーマ君は上った先に壁しかない階段の上にいた。今思えば、それは〈スニークギフテッド〉で壁があるように見せていたのかもしれないし、本当にトマソンよろしく壁しかなかったのかもしれない。降りて来ないのは、万が一に備えてだろう。ただ。
届くけどなぁ。
トーマ君の顔付きが変わった。
本当に、誓ってそんなつもりはなかったのだけれど。
どうやら、伝わってしまうものがあったらしい。
私は、小首を傾げた。
──蹴っちゃうの?
トーマ君が、ぶんぶんと音がしそうなくらい、頭を振った。
交渉が成立した。
それきり、この地下壕関連で、行方不明者が出たことは、今のところない。