Pain
冷たくて、固い。目を開けた。身体の芯まで冷え切って、あちこちが痛むけど。
何とか──生きてる。
あの気味の悪い、十字架の形をした発疹も見当たらない。
スマホを拾った。ボタンを押して、ぞっとする。
あれから二時間以上も経っている。それに、もうすぐ二桁の着信履歴。
かけ直す。三コールで出てくれた。
「ささめちゃん?」
まこの声は、緊張しているみたいだった。
「ささめちゃんは大丈夫なの?」
──ささめちゃんは?
「ココちゃんが、たった今見つかって」
そこで、言葉が切れた。息を飲んだのは、まこか私か。
「つくしちゃんは、一緒にいる?」
かけらの期待も、こもっていない声だった。
言葉が、出てこなかった。まこは、ノーと判断したんだろう。現状を説明して──くれているってことは、わかる。頭が、情報を処理しきれない。落ち着いて聞いて。家族の皆で。警察にも連絡して。
私は──通話を切った。無駄だって思ったからだ。
※
診療所のベッドで、手に持つ紅茶を眺めている。
いつも通りのことがしたくてね──と鏡花さんが言った。
「身体を温めるならもっと他にないかって、考えたのだけれど、落ち着きたかったから」
だから、いつもの紅茶に。注がれたばかりのそれを、口にする。
美味しい。そう、言いたかったけれど。前向きな気持ちを言葉にすることさえ許されないような空気に、私はうんと頷くしかない。
窓の外は、まだ雪が降っている。
私が倒れていたのは、あのトンネルからそう離れていない山道だった。
目が覚めて、最初に見えたのは、涙ぐんでいる晶の顔だった。
どうやら私の散歩コースを憶えてくれていたらしい。
晶は、隣のベッドに腰かけて、紅茶を啜っている。コップを持つ両手が赤々していて。
とても弱って見えた。
私を診療所に送ってから、その足でつくしちゃんも捜そうとして、まこ姉さんに止められたらしい。
エンボスを見る。
あんなに──強い幻覚は久しぶりだった。幻覚が強いほど、ボスも深刻なダメージを負っているということ。テレパシーを試みたけれど、ノイズしか聞こえなかった。
──無事だろうか。
「ごめんなさい」
私が、先に助かってしまった。この状況を招いたのは、私なのに。
晶が、こっちを見た。哀しそうに眉根を寄せて、口をきつく結んでいた。熱いだろう紅茶を一気に飲んで、立ち上がった。
「やっぱ、捜しに行くわ」
出て行こうとする晶の前に、鏡花さんが立った。
「何だよ」
鏡花さんは、横目で一度私を見てから、短く息を吐いた。それから、晶に視線を戻す。
「どうしてまこが貴女を止めたのかわかってる?」
「そんなの。私は、まだ全然──」
「身体のことだけじゃない。こうは考えないの。もし、貴女まで戻って来なかったらって」
いなくなってしまったらって。
鏡花さんが、そっと晶の手をとった。
「貴女も、ココも。頑張ったわよ。だから、お願い。まこの気持ちも察してあげて」
こんなにも──感情を表に出している鏡花さんはいつぶりだろう。
晶は、何も言わない。いや、言えないのか。
荒っぽくドアが開いた。
雪に濡れたレインコート──肩で息をするささめ姉さんがいた。
足早に近寄ってくる。いきなり胸倉を掴まれた。
「何か──憶えてないの?」
目が、据わっている。そして、底なしに哀しい。
赤い苔に飲み込まれ、かつての仲間だった狸たちに囲まれ、幻覚に意識を失って。
何一つ、本当のことなんて打ち明けられない。打ち明けてはいけない。
「憶えて──いないの」
こんなにも、心を哀しみでいっぱいにしている娘に。
「ごめんなさい」
私は、嘘を吐くことしかできないんだ。
頬に衝撃。ややあって、ビンタされたんだとわかった。
「無事に帰ってくるって言ったじゃない!」
──え?
ささめ姉さんは、驚いたような顔で、私を叩いた自分の手を見て──。
後ろに倒れた。晶が、レインコートのフードを引っ張りながら、足を払ったのだ。そのまま、ささめ姉さんに馬乗りになる。
「どうしたの。もしアンタが私で、ココがつくしだったら──私、絶対殴ってる」
晶の顔は見えない。でも、どんな顔かはわかる。
駄目。今の晶を、挑発してはいけない。
「晶!」
私と鏡花さんの悲鳴みたいな声が重なって。
晶は、舌打ちをした。ゆっくりとささめ姉さんから離れた。
ささめ姉さんが上体を起こした。
手で顔を覆って──泣かなかった。
そのまま、止まってしまった。
三月九日
つくしちゃんの遺体が発見された。
連絡があったのは、雪の溶けかけた朝早くだった。場所は、遊具だけが残る小学校跡地。小学生の間では、秘密基地と呼ばれているらしい。そこにある、誰かが置いた古いベンチに、つくしちゃんは横たわっていた。あの日着ていた、ダッフルコートを頭から被って。
生前に受けたと思われる傷も、死後に受けたと思われる傷もなかった。
原因不明の心肺停止だった。小学生の女の子が、あんなに健康な娘が。
通報したのは島佐竹君。私の友だち──依鈴先輩の弟で、つくしちゃんの同級生だった。
そして、スニーカーが、片方見つからなかった。
つくしちゃんの通夜。みんなが、涙を浮かべる中で。
ささめ姉さんだけは、泣かなかった。
※
三月一一日
葬儀が終わって、深夜。
アジトからは、何も見つからなかった。銃も薬莢も。どうも──先客がいたらしい。弾痕に至っては、私とオオカミがつけたものさえ、消えてなくなっている。この調子じゃ、怪しい箇所を穿ったって、何も出てきやしないだろう。
引っかかったのは、スモークディフューザーや香炉傀儡なんかのガジェット一切に、起動した形跡がなかったこと。故障していたワケでも、物理的に壊されたワケでもない。まともに機能していれば、あの部屋に辿り着くことさえ難しいはず。
──ワープ系のワンノートか、あるいは装置か。
結局、オオカミの素性を調べるのに役立ちそうなのは、火傷から抜いた釘だけか。
探索しながら、腕時計に逐一経過を伝える。
返事はないけど、できないだけで聞いてる可能性はある。
コクーン体だと、周波の都合上、テレパシーは役に立たない。そんな事態のために、これでシャロとやり取りができるようにしている。向こうからの返事は、女性の合成音声。ギノーの声は、機械で拾えないからだ。
つい、頬がゆるんだ。
なら、電子音声現象って何よ──とアイツに訊こうとして、でも話振ったら振ったで長くなりそうだって考え直して止めた、そんな、昔話を思い出したからだ。
腕時計自体は思い入れのない代物──って言いたいけど、残念なことに思い入れはある。
アパレルショップの仲良かったスタッフさんが、百蘇比でリニューアルオープンするお店に異動になって、オープン初日にやって来た私に、プレゼントしてくれたものなのだ。
ただ、連絡ツールとして改造してとシャロに頼んで、そのとき内蔵されたのがどうも私らの世界にはない代物──疲れの原因物質を分解する特殊なフィールドを発生させる合金で、シャロは未来界でも当に採用されていると思い込んでいた──だったらしく、思い出の品は普段使いできなくなってしまった。要するに、コイツを着けたままじゃ既来界を出られないのだ。
未来界から既来界へは大抵持ち込めるのに、どうして逆は制限がキツイのか。
──モノの出入りに制限がある現状は、むしろ喜ばしいことだよ。
それは、誰にとっての喜ばしいなのか。
シャロは、いつも肝心なところをぼかしてくる。
さて、機械は──あるにはある。けど、シャロがいないんじゃどうしようもない。仮に機械が答えを出せたとしても、私にはそれが理解できない。いつも分析結果そのままじゃなく、シャロが噛み砕いた結果を聞いているだけなんだから。
それに壊しでもしたら、いよいよつくしに手を出した連中に辿り着けなくなる。
打つ手が、なくなる。
割れた窓から外を見た。
未来界じゃあ、遠くの空が白み始めている頃だろう。
そろそろ、家に帰らないと。
「中学生だもんね」
結局のところ。どんなに強くなったって、戻ればただの中学生。
「こちらヒューストン。アポロ一一号応答せよ」
──なんつって。
文字盤のエメラルドグリーンが鮮やかなソイツから、やっぱり応答はなかった。
家に帰った。
足を止めたのは、晶と鏡花とココの部屋。
これから、この娘たちまで、危ない目に遭わせてしまうのだろうか。
私とつくしの部屋に入る。
二つある勉強机。二つあるベッド。閉じたドアにもたれて、ゆっくりと床に座る。
こんな──広いんだ。
つくしの勉強机を見た。教科書は教科毎に分けられている。制服はハンガーにかけてある。案外几帳面だったのよね。お友だちの──しずりちゃんに勉強を教えてもらっていたかいもあって、成績が特別悪いなんて話も聞いたことなかったし。
そう、善い娘だったのだ。
本当に。
「善い娘で──」
いつの間にか取り出したカッターを、いつの間にか手首に押し当てていた。
カッターをさっと離す。
違う。今のは、いつも通り釘を作ろうとしただけで。
手首に、血の泡が浮かんだ。
そこに、自分のモヤモヤが全て押し込まれているような気がして。
ああ──これでいいのかもしれない。
どうせ、もうあの未来はやって来ない。
「つくし。ささめねーちんさ。つくしに会いたいよ」
──きしっ。
カッターを置いた。今の音は?
──きしっ、きしっ、きしっ。
出所が掴めない。何だか足音のように聞こえる。
ヤバい。私は今、とんでもないことを言おうとしている。
言うな。それは呪文だ。言葉にしたら、もう抜け出せなくなる。
「──つくしなの?」
──きしっ。
ああっ、何て都合のいい。
やさしい魔法なんだろう。
※
ささめんがプチ家出したと晶が言った。
藤枝さんの家にしばらくお泊りするだけよとまこ姉さんが訂正した。
藤枝先輩はささめ姉さんの友だちだ。三つ編みのおさげに、すらりとした立ち姿がいかにも品があって、泣き黒子が何だか色っぽい人だ。
私は、そうなんだと言う一方で。
少し──ずるいと思った。