Strawberry Panic
雪の動きは忙しない。夏の川辺に群れている、小さな虫のようだ。
どうして、不安になるのだろう。
向こう側を──既来界を連想するからだろうか。
──似ていないのに。
空から降るヒヒイロゴケは、もっとずっと穏やかだ。
つくしちゃんは、雪道の凹凸で遊んでいた。高い所を踏んでは、低い所まで滑ってゆく。
「危ないよ」
振り向いた。つくしちゃんの何か言った──とでも言いたげな顔に、声が届いていなかったのだとわかる。やっぱり、ささめ姉さんみたいにはなれそうもない。
散歩へ出ようとした時、つくしちゃんに一緒に行きたいと声を掛けられた。
黒いロングダッフルコート。ささめ姉さんの借り物だから、ロングに見えるのかもしれない。
つくしちゃんが、ついて来るなんて珍しい。
断る理由もなかったので、いいよと答えた。黒板に、伝言を残すことだけ頼んでおいた。
つくしちゃんが、私の腕時計を見ている。
「何かあるの?」
観たいテレビとか。
つくしちゃんは、何にもないよと言って、頭を振った。何かあるんだろうなってわかったけれど、本気で隠そうとしているみたいだから追及はしない。
私は、つくしちゃんの目が苦手だ。人の考えていること、本質を見透かす目という意味なら鏡花さんも同じ。けれど、二人には──遠慮の差という違いがある。
鏡花さんは、たとえ全てを見透かす能力があっても、全てを見透かそうとはしない。人が、本気で見てほしくないと思っている部分は、見て見ぬフリをしてくれる。
けれど、つくしちゃんにはそれがない。人の本当の姿を映すことに、容赦がない。
だから、足許ばかり見てしまう。
──スニーカー。ささめ姉さんからの誕生日プレゼント。
出かける前、鏡花さんからは、足が冷えるから他のになさいと言われ、私からは雪で汚れちゃうし止めた方が良いよと言われ。それでも、つくしちゃんはやんわりとだけど譲らなかった。
よっぽど、今日、履きたかったんだろうな。
ややあって、赤煉瓦のトンネル前に着いた。中も、全て赤煉瓦が巻いてある。
そろそろ帰ろうか──と切り出そうとしたとき、
「カイジューが人間に成るにはどうしたらいいのかな」
つくしちゃんが言った。
──怪獣。
「それは、なぞなぞ?」
「ねーちんには聞いてみたんだけどさ」
切なそうに、目を伏せる。
ねーちんとしか言わなかったけれど、多分ささめ姉さんのことだろうなって思った。
「えっと、カイジューはさ、力が強いんだ。強いから、痛い思いをさせちゃうかもしれない。だから──怖いんだ。怖いから、大切な人の隣にいられない。守りたいなら、隣にいなくちゃいけないのに。カイジューだと、隣にいちゃダメなんだ。だから人間がいい。カイジューは人間に成りたいのに、どうやったら成れるのか、わかんなくて」
不思議だった。
つくしちゃんが何を言いたいのか、わかったからじゃない。
私が何を言いたいのか、わかったからだ。
ねえ、つくしちゃん──と呼びかけて、日傘を少し、つくしちゃんの方へ傾ける。
「私は、どんなに強くお願いしたって、カイジューは人間に成れないと思う。でも、カイジューだからって理由だけで、大切の人の傍を離れなくちゃいけないのかな? カイジューが傍にいられないのは、怖がらせてしまうからだよね? だったら、みんなが怖くないような、やさしいカイジューであり続けるしかないよ。優しくしたいって気持ちを忘れなければ──円らな目の可愛いカイジューになれるんじゃないかな」
つくしちゃんが、抱き着いてきた。
いつもの体当たり紛いではなくて、良い意味でこの娘らしくない。
──淑やかさがあった。
「ココねーちん」
頭をそっと撫でる。何だか壊れてしまいそう。
ふと、遠くの木を見た。枝にうっすら積もる雪の輪郭は。
赤く、幽かに震えていた。
一斉に落ちるヒヒイロゴケが、地面の雪を染めてゆく。
つくしちゃんが、くるりと回った。私を庇うみたいに、腕を広げた。
ヒヒイロゴケの柱が、あちこちで噴き上がる。
まるで、砲弾がばら撒かれている海にいるよう。
赤い津波に、飲み込まれた。
私は、手の届くところにある背中に、手を伸ばして。
空を掴んだ。前につんのめった。
ヒヒイロゴケに覆われたトンネルにいた。手に、日傘はなかった。
眼前を、葩が過ぎる。紫色の斑点に憶えがあった。
「似ているでしょう。その模様」
暗がりより出るのは──高いというより長い身体、貉の顔に豹のような斑点模様。そして、真紅の蝙蝠羽織の背中には、蜘蛛が刺繍されていることを、ココは知っている。
動けない。
靴の上には、翼を広げた鳥を模した葉──ワンノート〈舞風〉が乗っている。
「風梨華?」
風利華が、怪訝そうな顔をする。すぐに、不敵に笑った。
「光栄だわ。まさか、かの有名な白い鬼に名を知られているなんて」
どうも──違和感がある。冗談で言っているふうではない。
「ど、どうしちゃったの風梨華? 私のこと──」
言葉に、詰まる。
風梨華の口許に浮かぶのは、見覚えのある笑み。
けれど、こんな目は。知らない。向けられたことが、ない。
「どういう腹積もりかは、まあいいとして、そんな悠長に構えていていいの?」
言って、風梨華が顎で後方を指した。
赤褐色の太い鎖が犇めきあって、出口を塞ぐ壁と化している。
まさか──。
「つ、つくしちゃんは」
関係ないでしょ──と言おうとして。
風。咄嗟に身を縮める。頭上で破裂音がした。
はらはらと、落ちてくる、この葩は。
「いつまで可愛い子ぶってんだコラ」
ああ、思い出した。鬼百合だ。斑模様が似ている、風梨華の好きな花だ。
貴女がくれた髪飾り。可愛い女の子みたいよ。
「うん、そうだね」
ココは──目で笑った。
赤い稲光が走る。〈舞風〉が粉々になった。
それが、合図だった。
風梨華が、小豆を撒く。数は六つ。地面に落ちるや、瞬く間にヒヒイロゴケを集めて。
うち五つは、狸の頭に鎖帷子の仮面、庇付き軍帽、剣帯から軍刀を吊った──兵士に化ける。残る一つは、大太刀に化けて、風梨華の手に掴まれた。
兵士が抜刀した。真っ向から斬りかかって来る。
投げた。呼吸を合わせて、振り下ろす勢いを活かして。そいつが一回転したときには、もう、刀はココの手に渡っている。
右から来た二人目が、上段をとった。踏み込み、すくい上げる刀で上膊部を、身を沈めつつ下ろす刀で顔面を斬る。
左からの三人目。刀で斬撃を受ける。水平に構えた剣尖は、すでに肋へと滑り込んでいて──。払った。兵士がくるくると踊った。
つうと、一歩横へ。振り向きざまの斬り上げは、背後から不意をつかんとしていた丸腰の兵士──その脚の付け根を削いだ。のたうち回る。苔の飛沫が飛び散る。心臓を、突いて止めた。
天井を削りながら迫る大太刀。小さく肩を右に振ってから、左奥へ。
一瞬、風梨華と視線が触れ合った。
片足で壁を滑走。身体を宙へ。上段に構えるココの眼下には、それを見上げる兵士。振り下ろす。劈く金属音。同じことだった。受けた刀の背が、軍帽にめり込んでいた。これで──四人目。
腰を大きく捻る風梨華。右足が、弧を描くように前へ出て。
──ああ、懐かしい。
一閃。ココの刀が、吹き飛ぶように折れた。
続く前蹴りを半身になって躱しつつ──一歩。鳩尾へ、肩による当身。
風梨華の身体が飛んだ。突き立てた大太刀をブレーキにして、再び突っ込んでくる。
だから。
ココは蹲った。その足許に。
勢いあまって転ぶ他ない、絶妙のタイミングで。
風梨華が転ぶ。と、後ろから殺気。振り向きざま、足の甲を一撃してから、顎へ掌底。直接掌を当てていないにもかかわらず、兵士は頭から天井に激突した。
ワンノート〈引飴〉──拳足から空気の衝撃を放つことができる。
動かなくなった五人目から刀を取り上げる。
あとは──不敵に笑う風梨華のみ。
ココは、脇構えをとった。
風梨華は、片手で持つ大太刀を背中に隠すように担いだ。
先に動いたのは──ココ。
間合いに入った瞬間、脳天に迫る必殺の一撃。
両足の爪先を軸に、右へ転ずる。
太刀筋が、化けた。ほぼ直角に折れて、ココのこめかみに追いつかんとする。
──予想通りだった。
胴より頭を低く。足捌きに、柄頭で壁を打つ反動も加えて、一気に左へ。
風梨華の胴を横一文字に打った。
呻いて、がくりと膝をつく風梨華。
ココは、片手で刀を頭上に構える。
どうして、棟で打ったのだろう。義妹が危ないとわかっているのに。
「変ね。止めがこないわ」
早く振り下ろさなければ──。
「え」
見下ろす先に、つくしがいた。
落ち着け。これは、どう考えても。狸の変化では。
と、腹部に押しつけられる硬質な感触。
乾いた音が、連続した。その数だけ、衝撃があった。
両膝をついた。手から離れた刀を蹴飛ばされた。
見上げると、銃口がこちらを向いていた。
「じゃあね、白い鬼」
ココは、ただ見ていた。引き金に、指をかける風梨華を。
そして、その頭上に浮かぶ、全面に「半」と表示された、光の立方体を。
肌に、静電気が走る。
風梨華が飛び退いた。さっきまで、風梨華のいた足許に、弾痕が散らばった。立方体が火を噴いたのだ。
「無事かぁ! お嬢!」
後ろに、トーマがいた。
ココより少し低い背丈、ボスとは対照的な青い膚、昔ながらの大工を彷彿させる風体。
ボスと同じく河童を根源とするギノー。
構えているショットガンは、銃身が酷く短い。事実、短いのではない。
ショットガンは、トーマの正面にある「丁」の立方体に突っ込まれ、二つ並んだ銃口が「半」の立方体から飛び出している。
ワンノート〈ウインチェスターキューブ〉──立方体同士で、空間が繋がっているのだ。
ショットガンが、次々と吠える。
風梨華は、滑走を駆使しながら、踊るようにそれを躱して──。
跳んだ。「半」に手を突き入れた。ココの後ろで、驚くような声がした。「半」から引きずり出されるトーマ。地面に叩きつけられ、蹴り上げられ、ショットガンを奪われる。引き金に、風梨華の指がかかって。
その指が、ピンポイントでなくなった。
ワンノート〈ブラッドスポーツ〉──ココが手を着いた壁から出現した有刺鉄線。それが、向かい側の壁へと一直線に伸びる過程で、風梨華の指を削いだのだ。
ショットガンが風梨華の手を離れたところで反転。
「丁」に頭から飛び込んで、「半」から飛び出すココ。
眼下に現れる、驚いたような風梨華の顔。
捻り込むように〈引飴〉を打ち下ろす。
風梨華が、地面に叩き付けられた。バウンドして、何度か横に転がった。
ココは、腹部から落ちた。撃たれたところが熱い。押さえて、四つん這いになる。
お嬢と言って、トーマが傍にやって来た。
出口を塞ぐ鎖が消えて、赤い世界が、ぽっかりと開かれている。
そして、風梨華の姿はなかった。
木に凭れて、息を整えている。掌をじっと見た。
──自分では、変化がわからないけれど。
ボンディングスキンが何かでコーティングされているような感じがある。
ワンノート〈スニークギフテッド〉──SF作品によく出る、いわゆる光学迷彩。トーマ君の場合は自分が透明になるだけではなくて、選んだ相手を透明にすることもできる。
「いいですか。お嬢はここで大人しくしていてください」
私は、拳を前に出した。掌を上に開いてみせる。
潰れた銃弾が四つ。焦げた皮膚の欠片が付いている。
「撃たれる前、お腹に負力を固めたの。一発も貫通してない」
だから、大丈夫。私もつくしちゃんを捜す。
トーマ君が苦い顔をした。何かを振り払うように、頭を振った。
「約束します」
トーマ君に手を握られる。かちゃりと銃弾が擦れ合って音を立てた。
「必ず、お嬢が悲しむような結末にはしません」
義妹さんを見つけます──ではなくて。
この目は──。
トーマ君の背中が、遠くなってゆく。すっかり、見えなくなるのを待ってから。
「ごめんね、トーマ君」
銃弾を、叩き付けるように捨てた。
走る。ただ、走る。
踏んだ拍子に折れて足首を叩く小枝が、大したことない地面の凹凸が酷く鬱陶しい。
それだけ、焦っているのか、弱っているのか。両方かもしれない。
こっち側──未来界にいた。
さっきの目──トーマ君の顔が頭を過ぎる。
優しい目だった。私のことを好いてくれている目だった。彼に、少し似ていた。
──胸騒ぎがする。
お腹が、じくじくと熱い。
実は、一発だけ貫通していた。弾は全て純金。河童は金気を嫌う。相性の悪さから、ボンディングスキンが本来の防御力を発揮できなかったのだろう。もっとも、その怪我だってすでに塞がり始めている。
そう、カイジューはこんなものじゃ死なない。
「つくしちゃん!」
ああ、こんなにもおっきな声で。
「つくしちゃん!」
つくしちゃんの名前を、呼んだことなんてあったかな。
私の声は、全て雪に染み込んでいくようで、ちっとも通らない。
あの娘に──届きやしない。
それにしても、何て暗いのだろう。家を出たときは、朝だったはずなのに。
粉雪は、相変わらず、忙しなくって。
見ていると、ただただ焦りが募って──。
「え」
雪が──昇っている? 空へ、還っていないか?
まるで、ここは水底で。あれは、泡か──。
エンボスが熱い。赤く明滅している。レッドアラート。
そんな。厭だ。
「ボス!」
その言葉さえ、泡になって消えてしまう。
息ができない。まるで、本当に水の中にいるよう。
足場がなくなった。
泡に包まれて、暗い水底へ落ちる。綺麗な水ではなかった。
落ちているのは、私だけではない。
いくつかの影が、同じように泡を纏って、沈んでゆくのが見える。
それは、牛だったり、人間だったりした。
みんな──もう目に生気がなかった。
現実の自分が、立っているのか、倒れているのかさえ、わからない。
捜さなくちゃ。ボスを、つくしちゃんを。捜さないと、いけないのに。
目の前に、また泡の塊が落ちる。
子どもだ。白く濁った目をした、女の子の屍体だ。