Burning Man
三月八日
家族で使うブラックボードには、ココねーちんとぶじにかえってきます──とある。
窓に目を遣ると、ちらちらと雪が降っている。
「マジで?」
「マジで」
おそよう、ささめん──と晶が続けた。声がデカい──っていうより通るのか。スポーツがつまんないなら、声楽でもやったらいいのに。
デニムのエプロン、ハーフアップでまとめた頭に赤いバンダナ。何かリニューアルオープンしたレトロ喫茶の看板娘っぽい。カウンター越しに手許を覗くと、スライスしたリンゴを炒めていた。バターの良い匂いがする。
「朝ご飯?」
「ブランチ。ささめんにとってはな」
「そっちにとっては?」
「早めのおやつ」
味見するかと訊かれて、楽しみにとっとくとだけ返した。
湯を入れたばかりのスティックコーヒーを混ぜながら、また目線は外へ。
──この寒い中、よくやるわ。
「心配?」
まこが、ノートパソコンの画面に目を向けたまま言った。
「別に。ただ、珍しい組み合わせだなって思っただけ」
つくしとココなんて。向かいの席に座る私に、
「ははーん」
手が届くなら、今にもほっぺをつついてきそうな目つきで、まこが言う。
「そのははーんの続き言ったら怒るから」
「ささめんカワイイ」
ささめん言うなと突っ込んで、コーヒーに口をつける。
パソコンの画面を見たりはしない。眼鏡をかけてるときは仕事モードだから邪魔したら悪いし、何より──朝から見るには爽やかじゃないモノが映ってる可能性もある。
まこは私の養母で、人形作家として活動している。作家同士が集まってやってる雑貨店で、人形の他にも何やら色々出品しているらしい。ただ、自宅で大がかりな作業をしてるトコは見たことないから、その店にアトリエを借りてる作家さんもいるっていうし、まこもその一人なんだろう。
一度、まこの個展を観に行ったことがある。
先入観を持ってほしくないからと、チラシは渡されず、場所だけを教えられた。
いつだって、大人の女性らしいシルエットに、パステルカラーの差し色が映える、新人お天気キャスターみたいなまこのことだ。さて、どんな洒落た空間が広がっているのかと向かってみたら。
強烈だった。思っていたのと全く違った。
それは、女の子が楽器に取り込まれているのか、元よりそうした生きものだったのか。
くすんだワンピースからぞろぞろと、木の根っこみたいに散らばって伸びる管は、金管楽器の部品を再利用した、剥き出しのヒトの中身のようで。
タイトルは──付喪神。
微笑んではいるけど、少し不安そうな顔で、まこが言う。
──どう、思う?
──何と言うか、ぞっとする。
──良かった。グロテスクや痛々しいって言われたら、どうしようって思っていたもの。
──ごめん。グロいとは思った。言わなかっただけ。
──思っていても、口に出さないことが大切なのよ。ささめちゃんはブシドーね。
会場は、嗅いだことのないイイ匂いがした。玲市と鏡花おすすめのアロマらしかった。
帰りに二人で寄ったカフェで、どうして他の娘じゃなく私を選んだのか訊いた。
──晶ちゃんと鏡花ちゃんは、方向性は全然違うけど、思ったことを飾らずに言うってとこは同じでしょ。だから、連れて来たらかえって私が傷付きそう。つくしちゃんはまだ早いっていうか、ほらっ、ささめちゃんがそういう目をするから自重したんですぅ。
──ココは?
──あの娘は、感化されると後々がねぇ。
芸術家の言いたいことって、いまいちわからん。
「へいおまち」
言って、晶がテーブルに置いたのは、サイコロ状に切ったトーストに、リンゴのバター炒めを乗せて、シナモンを振った一品。
フォークで刺し、ほいと言って差し出してくる。片手は、同じものを乗っけた厚切りのトーストで埋まっていた。まあ──コイツからしたらおやつなんだろう。
ありがとうって言いつつフォークに手を伸ばしたけど、あっさり躱された。観念して、口で迎える。
晶の料理は当たり外れが激しい。本人が言うには、だってここで味見しろってレシピに書いてなくね──だそうだ。で、幸い今日は当たりっぽい。
「まあ、心配な組み合わせだけどよ。平気だろ。ケータイも持ってったし」
家では、個人のスマホを持っている私を除いて、義姉妹共有のガラケーがある。外に出かけるときは、持っていく決まりだ。
「会ってたの?」
「いや、鏡花が持たせたって。カイロも渡したし、釘も刺しといたって」
「何て言って?」
「ぼーっとするな。はしゃぎ過ぎるな」
どっちがどっちに向けた言葉か、考えなくてもわかる。カーチャンか、あの娘は。
「鏡花ちゃんって、ママっていうよりカーチャンっぽいわよね」
まこの──私の心を読んだんじゃないかって発言に、わかるわかると同意する晶。
今さらながら思う。
つくしには一緒に散歩するねーちんがいて、はしゃぎ過ぎないようにと注意するねーちんもいる。あの頃とは違う。
ねーちんは、ささめねーちん一人じゃない。
まこに茶化されたのもあって、妬いてるんだって思ってたけど、これは。
口元にマグを近づけて──。
目の前を、煙が過ぎった。温もりのない、一筋の、黒い煙が。
危うく落とすとこだったマグを、何にもなかったふうに置いて、私は言う。
「晶、クロスバイク貸りる」
フードの中の耳が、千切れそうなほど痛い。
──イヤーマフ着けてくるんだった。
ペダルを漕ぎながら、テレパシーに集中するけど、妖精のひそひそ話みたいなノイズばかり。
あの黒い煙は、私の契約ギノー──シャロが怪我をしたって証拠。アイツが危ないって報せ。でも、シャロが倒れたなら、もっと強い幻覚に襲われて、今ごろチャリで走ってるどころじゃないはずだ。
雪は小粒。イメージだと逆だけど、確か大粒より積もりやすいんだっけか。
本格的に積もったら、つくしとココは。
流石に──それまでには帰るか。
目的地が見えた。
と、吐く息が白くなくなる。
降っている雪が赤くなって。一面に、赤が行き渡るまでは、流れるようだった。
ギノー。空想上の産物を語る上で欠かせない伝承や信仰の、悪い部分だけが寄せ集まって、この見渡す限りのヒヒイロゴケ──その一部を以て、実体化した存在。形ある悪意。妖怪と似て至らぬもの。シャロは私にそう教えた。
人間の恐怖が食料源とか、爬虫類人かよって感じだけど。
なら──この苔は?
物質に同化し、記憶を留め、ギノーの身体を構成するコイツは?
一体、何だっていうんだか。
十朱市園芸センター。閉鎖したこのセンター内に、シャロと私のアジトがある。
クロスバイクを止めて、ベルトのケースから、もうどこにも繋がらないプリペイド携帯を取り出す。
そいつの液晶から、テントウムシほどの苔の塊が一つ、這い出て来た。
あっという間にその数は増えて、携帯の輪郭を覆ったところで、弾け飛んだ。
生成したのはネイルガン。マガジンの釘からエネルギーを抽出、釘状の結晶に変換する仕組みなので、実際の装填数より多く撃てる。残弾数は拳銃でいう照門がある位置に、SFモノのディスプレイっぽく表示されている。
門を乗り越えて、左腕の内側にあるエンボスに意識を遣る。
感知できる負力は一人分。シャロ以外にギノーはいない。
あくまで、感知できる範囲には──って話だけど。
「やあ、ささめ君」
元鉢物展示室。シャロは、呑気にパイプを喫っていた。
そんなヒマがあるならテレパシーに応えろ──という正論が、溜息にとって代わる。
シャロという愛称はささめがつけた。由来はシャーロック・ホームズ。シルクハットにインバネスコート、蝶ネクタイに白手袋、そして愛煙家。所々ささめの知る本家とは異なるが、それらしいとささめは思う。ただ、シャロには中身がなかった。いや、あるにはあるのだけれど、煙なのだ。人間なら顔があるべき部分では、煙がゆったりと渦を巻いている。
「火気厳禁は?」
「こうなってしまっては意味がないだろう」
床には、使い途こそわかるけれど、使い方はいまひとつわからない機械の残骸。
そして、四挺の銃といくつかの薬莢。いずれからも、まだ熱を感じる。うち二挺──拳銃はバックアップガンとして、問題はメイン。火器統制装置を備えたアサルトライフル。技術の進んだ既来界であっても、小火器に着いていて当り前ではない。
一体──どこから調達してきたのか。
手に取った薬莢には、三桁の数字が刻まれている。
「八〇八」
口にしながら目線を送った先で、シャロが心当たりはないとばかりに肩を竦めた。
シャロが返り討ちにした連中は、すでにヒヒイロゴケに戻ったのか。
ふと、壁を見て──。
「は?」
目を疑った。
いくつかある弾痕に、ヒヒイロゴケが薄い膜を張りつつあった。
これは、同化ではなく修復だ。自然に起こることはない。
弾の採取は──とささめは訊きかけて、はっとする。
手にしているパイプ。立ち上る煙の匂い。においが。
引き金を引いた。パイプが吹き飛んで、シャロが仰向けに倒れた。
左腕を横一文字に払う。撃発音。
眼前に、六つの火球が静止していた。
ささめの掌から放たれた黒煙──ワンノート〈水火の折〉に包まれて。
「完璧だと思ったんだがなぁ」
倒れたまま、右手だけを上げて発砲したそいつが上体を起こす。
「どうしてわかった?」
胡坐をかいて、首を捻るそいつは──オオカミの頭、胸にアメリカ国旗と狐の横顔が刺繍されたファティーグシャツ、大小様々な十字架柄が散らばるワークパンツ、そして、右手にはペッパーボックスピストル。火球は、それから出たのか。
ささめがわかった理由は二つ。
一つ──シャロが桜材のパイプを喫うのは、自分と話しているとき。一仕事を終えたあとの一服なら、クレイパイプを使う。
一つ──シャロは自分の前ではルームノートがする葉しか喫わない。
そして、そのことを──。
「リサーチ不足」
教える義理はない。
SHADOW──ネイルガンに音声入力。床に向けて、撃った。
オオカミが後ろに転がる。さっきまでオオカミがいた床から天井へ、一条の光輝が駆ける。引き金を引く度、オオカミは光輝に追われながら、あちらこちらへ転がって。四つん這いで止まった。その背中が沈んで──消えた。
横に跳ぶ。
後ろで爆発が起きた。〈水火の折〉が消えて、本来の時間の流れを取り戻した火球が着弾したのだ。滑走。ヒヒイロゴケに身体を運ばせながら、〈水火の折〉を──。発動してすぐ、火球が絡めとられた。外観こそペッパーボックスピストルだけれど、全てのバレルが同時に火を吹くとは。
オオカミは、天井のヒヒイロゴケを使って、逆さまにぶら下がっている。
滑るスピードは落とさず、体幹と床の角度を狭めてゆく。指先で、引っかけるようにフラスコを取った。オオカミの銃は右手。注視した。銃とフラスコを意識で繋いだ。
ワンノート〈揺蕩の折〉──ささめの左手にペッパーボックスピストルが、オオカミの右手にフラスコが現れた。
顔を顰めるオオカミ。投げつけられるフラスコ。
BLEACH──素早く二回、シングルハンドで引き金を引く。フラスコが砕け、天井からオオカミが離れた。一回転して着地した、その右膝で輝いているのは──。
破裂した。膝から下を失ったオオカミが倒れた。
銃口をオオカミの頭へと滑らせて。爪が、五指が、床に食い込んでいることに気付く。
引っかく勢いで、突進。膝を合わせるには低く、躱すにはもう遅い。
SHADOW──入力を終えるや、壁に叩き付けられた。腹部にめり込むオオカミの頭。息を吐いた。吐き出してしまった。両腕を掴まれる。足許を狙って一発。当たらない。締め上げられて、二挺の銃が手から離れて。オオカミが、それを蹴って飛ばした。大きく口が開いて──。
その上顎と下顎を、一条の光輝が貫いた。
身を捩るオオカミ。膝に負力を圧縮──顎を蹴り上げる。その足を担がれて、放り投げられた。床が迫ったところでロール。全身に衝撃を分散する。
向かいの壁付近まで、飛ばされていた。
ネイルガンが転がっている。
その向こうには、恐らく自分と同じ考えのオオカミ。
来い──ヒヒイロゴケに飛ばした命令は、ネイルガンへと走って。
向かいから来た、同様のそれに相殺された。
行き場を失ったネイルガンが、くるくると回る。
聞こえた大きな舌打ちは、知らず自分がしたものか。
ささめは、走った。
オオカミが、両腕と残る一本の脚を駆使して、飛んだ。
片や飛び膝蹴りの体勢。
一方、ささめは。
オオカミを──飛び越えかねないほどの跳躍。
見上げるオオカミの顔面に、身体ごと肘を落とす。
互いに、背中から落ちて。
ヒヒイロゴケの破片が、タンギモウジアの赤い花弁に変わって舞う中──。
先に立て直したのはささめ。仰向けのオオカミに、ネイルガンを突き付ける。
「シャロはどこ?」
「何だよ。そっちでいいのか?」
ささめは、眉を顰める。
「無事に帰ってくる方だよ」
直後、オオカミの手へ滑走する、ペッパーボックスピストル。
反射的に二回、引き金を引いた。オオカミの頭が破裂した。
荒い──息遣いだけが耳に届く。
ココねーちんとぶじにかえってきます──。
ヒヒイロゴケが消えた。
スマートフォンを出して、ココに連絡しようとして。
──右膝?
エンボスから伝達があって初めて気付く。それくらい小さな傷が、右膝にある布地の裂け目から覗いていた。エンボスは、ハンドラーの状態を把握するセンサーとしての機能も持っている。
火の粉が──跳ねたのか。ボンディングスキンのタイプがもう一段階低ければ、キリカから二度とモデルのオファーを受けられない肌になっていたかもしれない。
それにしても──液晶が、見づらい。
ぐらりと、視界が傾いた。
膝をついて。世界は、またも赤色に染まって。
肌に、目に映る肌全てに、十字架を模した発疹が浮かんでいる。
炎に、毒か──。
スマートフォンを手放した。火傷に、人差し指と親指を潜らせる。目の前が、端から暗く滲んでゆく。指先が、釘の頭を捉えた。
が、抜けない。手に十分な力が入らない。右手を左手で、さらには右腕の袖まで噛み締めて、思い切り引っ張る。それでも、なお。ならば。
ささめは、奥歯のカプセルを噛み潰した。
釘が抜けた。勢いあまって手をすっぽ抜けた。
肺に、一気に空気が入った。
ぼやけていた視界が、一瞬でクリアになって、くらりときた。
傍には、抜いたばかりの釘があった。
棘だらけの、いかにも抜けにくそうな、抜くときに痛みを伴いそうな形をしている。
毒は抜けた。
けれど、どうにも瞼が重い。
天井から少しずつ、苔の塊が剥がれていって──。
何やら大粒の雪のようだった。