Cross a red line
名前を呼ばれたような気がした。
掌に、ざらりとした感触。そう、直に触っている感じ。本当は、ボンディングスキンという第二の皮膚を隔てているのだけれど。
鳥居に手をついて、蹲っているところだった。鳥居は赤い苔に覆われていた。
立ち上がり、お腹を擦ってみる。
温もりは、あるにはある。私一人分の温もりで、もちろん動きもしない。
くるりと振り返る。日傘は、どこに落としたのだろう。畦道へ下りる石段の前まで戻る。
田んぼも家も山も──見える全てが、赤い苔に覆われていた。
──ヒヒイロゴケ。
それは、牛乳を飲み過ぎたような肌に、ちいさなちいさな水玉を散りばめて。
踏んだ感じは、霜柱に似ている。
日傘は、石段の途中に落ちていた。
一段ずつ下りるには面倒で、一段飛ばすには危うい。不親切な幅だと思う。いや、これは、爪先で探るような、私の歩き方が悪いのか。視力が人並みの今となっては、ちまちま歩く必要もないのだけれど、どうも癖になっている。
日傘を拾った。畳んで、もう一度開いて。傘についたヒヒイロゴケを飛ばす。
別に意味はなかった。
灰色がかった桜色の空から降っているこれが、止まないのは知っているし──。ヒヒイロゴケは、触れ続けている対象に、やがて〈同化〉する。だから、世界の全てがヒヒイロゴケに埋め尽くされることはあっても、世界がヒヒイロゴケだけになってしまうことは、恐らくあり得ないのだ。
鳥居の前に立った。目を伏せると、小人の内緒話みたいなノイズが聞こえ始める。
──着いたよ。
そう、頭の中でメッセージを送って、くぐった鳥居の上──笠木と貫と呼ばれる、横木の間には、木彫りの河童が並んでお座りしている。そのじとっとした目に、緑の光が灯っているのを見届けてから、私はボスのもとに向かった。
「随分縮んじゃったね」
口をついて出た感想じゃない。私なりに場を和ませようって考えに考えた冗談だった。
ボスは、何も言わない。縁側に座って、私を見上げている。そう、見上げている。岩のように大きかった身体が、今ではぬいぐるみのように小さい。ただ、頭の天辺にある曇りガラスみたいな素材のドームや、恐竜を思わせる怖い顔、赤茶色の膚に、ズボンは丈が短くなったくらいで。
前と──そう変わらない部分もある。
コクーン体。酷いダメージなどが原因で、本来の姿を保てなくなったとき、ルーツ──人間でいうところの心臓であり脳でもある、とにかく彼らにとって大事なところ──を保護するために形成される仮初の身体。
こうして、見るのは初めてだった。
「お呼び立てして」
「ううん、私も会ってお話したかったから。心配かけちゃったよね」
つくしちゃんのことで色々あって。
昨日、使いのカエル君が家に来るまで、ボスの無事は確認できていなかった。いつもならテレパシーを使うのだけれど、ボスがコクーン体になった今では、有効範囲が百メートルほどに狭まっている。どのみち、顔を見て話したいとは思っていた。
ボスの隣に腰かけて、
「つくしちゃんのこと、色々ありがとう」
いざ言葉にしてみて、はっとする。これは──。
「あの、今のは」
捜してくれてとか、頑張ってくれてとか。そういう、言葉が足りなかった。
皮肉に──聞こえたのではないか。そんな、私の不安をよそに、ボスの眼は。
続きを待っているというより、皆まで言わなくても、私の不器用さはわかっているから。
そういう眼をしていた。
だから。お嬢。
「謝らないでっ」
自分でもびっくりするくらい大きな声が出た。
今のは、ボスの言葉を遮った──のだと思う。
気のせいかもしれない。でも、ボスの目を見れば、何かを言いかけていたことはわかる。
何を──言いかけていたのかもわかる。
「お願い。今回は、そんなに単純じゃないでしょ」
ボスは、ええ──とだけ、落とすように言った。
風はない。だから、葉の擦れ合う音もしない。
境内にカエル君達の姿はない。いつもなら──普通の蛙と変わらない大きさに、人間に近い骨格、木でできたような膚のカエル君たちが、相撲やサイコロを使った賭け事──あちこちで思い思いのことをしていて。私とボスは、たまに私の作ってきたお菓子をつまみながら、それを眺めているのだけれど。あの夜、やって来たカエル君によれば、今はみんな別の八幡神社で療養中だそうだ。
「記憶が一部消去されているのです」
ボスが、口を開いた。
「あの日、自分が誰にやられたのか、いまだに思い出せないのです。消去と言っても、データの管理情報が変更されたに過ぎないので、時間をかければ復元は可能ですが」
──ええっと。
表向きだった硬貨が裏向きにされたようなものですとボスが言い換えた。
つまり、硬貨自体は消えていない。見えないだけで、そこにあるということ。
「神社からは何も?」
「ええ、神社を始め、この一帯を洗いましたが、何も。ただ、何かはあったようです。ヒヒイロゴケのコードもまた読み取れぬよう破壊されていました。一緒だったひょうすべたちも俺と同様、何らかの記憶処理を受けているようです」
ヒヒイロゴケには、監視カメラのような働きもある。ただし、触れていた対象の目と耳を借りた監視カメラ。必要な道具があれば、リスクなしでそれを観ることができる。そして、ひょうすべとはカエル君たちのこと。
でも、何も手がかりを掴めないなんて。どうして、今さら。彼女が送り込まれた時点で、誰の仕業か喋っているようなものなのに。彼女──そうだ。
「風梨華に会ったよ」
ボスが、目を見張った。
「私のこと、憶えていないみたいだった。それこそ記憶の一部を消されてしまったみたいに。風梨華をあんなふうにしたってことは、きっと本気で私を止めたかったんだと思う」
そして、本気の試みは上手くいった。いや、上手くいかせたのか。
その気になれば、止められたはずなのに。
助けられる、命だったのに。
「風梨華は──まだ生きてると思う。彼女が、今回の件について何か知っているはずなの。たとえ、何も知らなくたって、手がかりは持ってると思う。もしかしたら、彼女の記憶をいじったのは、ボスたちの記憶をいじった相手と同じかもしれない。だから──」
続く言葉を飲み込んだ。
その先を、言ったら貴方は反対するだろう。
奴を信用してはいけないと。背を預けるに値しないと。正しい言葉を並べるだろう。
「何でもない。ごめんね。何をするにも、まずはボスが元気にならないといけないのに」
「兵主部の報恩をストックしています。身体を戻すだけなら、そいつで事足りる。テレパシーの周波範囲も、あと一〇時間もあれば回復できるでしょう」
いやに淡々としている。その目は、境内を向いている。
膝の上に置いた生白い手に、目線を落とした。
手の甲にあるエンボスは、ドミノにサイコロの目を描いたような図柄をしている。
エンボス──ギノーと契約してハンドラーになった人間の身体に現れる刺青みたいなもの。ボスが言うには、これはパイガオという中国式のポーカーで使う牌の模様で、梅を象徴しているらしい。エンボスの柄は、ハンドラーの心象が大きく影響しているそうだけれど。どうしてパイガオなのか、私にはまるで憶えがない。
「ねぇ、ボス。やっぱりね」
なんとなく、頭の中を読まれている気がする。だから──。
「私のこと、少しでいいから、食べた方が良いと思うの」
お互いに、目を合わせられないのだろうか。
「お嬢は──俺が倒れたとき、何をされていましたか?」
胸が、締め付けられる。
それは──ずるい。ずるい言い方だ。
「貴女には、もう恐怖を抱かせたくはない」
貴方がいなくなることの方が、ずっと怖い。たった、それだけが言えないでいる。
コクーン体は雛鳥みたいなもの。自分で餌を──獲れないことはないのだけれど、ステータスが本来の姿が持つそれに及ばない以上、身の安全を考えて、基本は親鳥が餌を与えることになる。ここでいう親鳥とは、ハンドラーである私のことで、餌は負力と呼ばれるエネルギーのこと。
私からボスへ、負力を送る手段は二つ。私がボスと同じく負力とヒヒイロゴケでできた存在──ギノーを倒すか、私自身が負力を生み出すために怖い思いをするか。
負力とは、負の感情のことなのだ。
「進展があれば、すぐにお伝えします。くれぐれも無茶をなさらないでください」
無理ではなくて無茶なんだ。
私が、言いかけて言わなかったことから、何か勘付いているのかもしれない。
わかった──と頷く私に、想像の中のボスが言う。
──それは掟に反していませんか。
確かにこれからやろうとしていることは、掟に反しているのかもしれない。ボスが動けない今、彼の力を借りて、つくしちゃんをあんな目に遭わせた奴を倒したとして、残るのは後悔だけかもしれない。
でも、じっとしてはいられない。それに、わかってしまったから。
「ボスこそ無理はしないでね。私もボスが良くなるまではじっとしてるから」
自分を──大野木ココを可愛がっているようでは、もう誰も救えないんだって。