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涙で雪は穴だらけ

 乾杯。お猪口(ちょこ)のそれをちびりと啜った。すでに空の(さかずき)を持ったボスに見られていた。

「甘酒はお好きでないでしょうに」

「うん、あんまり好きじゃない。けど、気分は大事でしょ?」

 上目遣いに、ボスを見る。見上げている。ああ、いつもの高さだ。いつもの縁側で、何もかも元通りとはいかないけれど、こうしてボスと一緒なら、またすぐにこの境内はカエル君たちで賑やかになるだろう。

 微笑んで、ボスの胡坐(あぐら)の上に腰を落ち着ける。背中を預ける。

 ただいまもおかえりもなかった。おかえりと、言いかけたには言いかけたのだけれど、止めた。どうして口にしなかったのかはわからない。ううん、わからないというより、この気持ちは上手く言葉にできない。

 佐竹君の謝らなければいけないこととは、つくしちゃんのスニーカーを取ってしまったこと。

 あの日、佐竹君は林の中でつくしちゃんのスニーカーを拾い、基地でつくしちゃんを見つけて。気が動転して、持ったまま逃げてしまっただけなのだから。

 どうして、佐竹君が雪の降る早朝、そんなところに一人だったのかは、訊かなかった。思い出すのは、つくしちゃんの時間を気にする素振り。私が時間を伝えた時の、ぎこちない反応。

 二人は、約束していたのではないだろうか。トーマ君の言う、フラフラしていたつくしちゃんとは、佐竹君のもとに向かおうとしているつくしちゃんだったのではないか。

 けれど、だとしたら、どうして。

 つくしちゃんは、私について来たのだろう。

 佐竹君との約束をすっぽかしてしまうようなことをしたのだろう。

「トーマ君、言ってたんだ。つくしちゃんはフラフラしていたって。それについては、本当のことを喋っていたと思うの。つくしちゃんを撃ったのはトーマ君。けれど、私と風梨華を戦わせて、つくしちゃんを孤立させた誰かが別にいる。もし、私とつくしちゃんを離れ離れにするところから、彼の計画だったのだとしたら、フラフラしていたという言葉を選ぶのはおかしいと思うの」

 すると目的は、私への報復などではなく。

「最初から──つくしちゃんだったのかな?」

 それに、つくしちゃんの怪我。つくしちゃんは無傷で、頭からコートを被っていた。事故か事件かわからなかった頃、学校で見たネットのニュース。犯罪心理学の先生のコメント。遺体の顔を隠すのは罪悪感の顕れ──。

 誰が、怪我を治してコートを被せたのだろう。

 頭がぼうっと熱い。知恵熱だろうか。ほんの少しだけくらくらする。

 記憶の復元(リカバリー)についてですがとボスが切り出した。

「データ自体が損傷していた為、二割しか復元できませんでした。そこから、手がかりは何も。だが、形跡を辿(たど)れば誰の仕業かは特定できる。今はその方向で調査を進めています」

 そっか、無理しないでね──と、声をかけた矢先、下の方で音がした。

 それが、お猪口を落とした音だと気づいて。

 私は、(てのひら)をじっと見る。指が幽かに震えている。

 完全に感覚が、ない。

「ボス。私──」

 そろそろ帰らないと。

 肩へ、大きな手が添えられた。

「お尋ねしていなかったことがあります。お嬢はどうやってアジトの入口を特定できたのですか?」

 私は、何も言えない。

「お嬢、貴女のしたことは」

 声が震えている。何かを押し殺そうとしている。

 ボスの手に、自分の手を重ねた。

「ボスを失うことに比べたら、怖くなんかなかった。だから、お願い。怒らないで」

 貴方が、怒っていないことなんて、心配しているだけなんだって。もちろん、わかっているのだけれど。

 この感覚の喪失は恐らく一時的、悪くても所詮断続的なものだ。けれど、ボスを失うことは違う。だから。

 目を閉じて、しばらく、そのままでいた。

             ※

 未来界で、石段をちまちまと下りている。

 ボスは言っていた。ヒヒイロゴケに直接触れてはならない。ましてや身体に取り込んではならないと。

 ヒヒイロゴケには、それに直接触れた人の記憶や、あるいは他の苔から流れ着いて来た記憶が眠っている。それを取り込むことは自分の脳に他人の脳を植え付けるようなものだ。拒絶反応は避けられない。確かに──危ないことだ。そんなことをしたら、記憶が混濁して、私が私でなくなってしまうかもしれない。

 私はあの日、ガスマスク──ゴーレムのヒヒイロゴケを食べたのだ。そこから情報を読み取って、トーマ君のアジトを突き止めたのだ。トーマ君がいる部屋がわかったのも、倒したゴーレムのヒヒイロゴケから、地下壕の内部構造に関するデータを吸収したからだ。

 ボスは、二度としてはいけないと強い口調で言った。

 私は、そうだねと頷いて、けれどもうしないと約束はしなかった。

 ねぇ、ボス。

 私、初めてじゃないんだよ。ヒヒイロゴケを体内に取り込んだのは。

 今はまだ、あの稲光を──元型(アーキ)の力をコントロールしきれていないけれど、もしできるようになったら。

 きっと、私文字通りの意味でこの世界に知らないことなんてなくなっちゃうんだよ。

 この世界に、私を裁いてくれる相手なんていなくなっちゃうかもしれないんだよ。

 それでも、私──やさしいカイジューであり続けられるのかな。

 うずくまってしまう。

 ああ、どうして夢でみたあの(ひと)が蓮華を握り潰したかったのか、わかってしまった。

 あの(ひと)も、食べようとしたのだ。自分が自分でなくなりたいと思ったのだ。

 傘を差し伸べてくれる人がいるのに。

 お(なか)に──赤ちゃんがいたのに。

 (うなじ)の辺りが、暑い。

 日傘は、落としてしまったのだろうか。

 私、みんなのところに帰っていいのかな。

 ふわりと、足許に影がひろがった。

「ユキンコ」

 白い日傘を(かざ)す、貴女(あなた)がいた。

 本気で心配している、私よりずっと心を痛めているとわかる、その眼差しに。

「大丈夫だよ」

 私は──うまく笑えているだろうか。

               

 気が合わない娘だと思った。

 ピアスに指輪、尖ったファッションに多少身構えはしたけれど、それだけでそう判断したわけじゃない。

 そういう子たちとお話ししたことは、鎮目の頃によくあったし、見た目がちょっと悪そうだからって中身まで悪いとは限らないってことくらい、私は身をもって知っている。

 初めて会ったとき、晶は私の枕元に伏せて居眠りしていた。

 目元が赤く、腫れていた。

 見ず知らずの子のために、すごく疲れた顔をしているのに、傍にいてくれる優しい娘。

 だから──気が合うわけがない。

 目を覚ました晶に、私は首を傾げて言う。

 ──初めまして?

 疑問形にしたのは、自信がなくなったから。晶の喜びに満ちた瞳に、私は憶えがなかったのだけれど、もしかしたら知り合いかもしれないって考え直したから。

 晶の目が潤んだ。口をへの字にして、俯いて、ああそうだよって擦れた声で。

 ──初めましてだよ。ユキンコ。

 ユキンコ。肌が白くて髪の毛も白い。

 不思議と──初めて呼ばれた気がしなかった。


 ウチは不良娘ばっかだなと自転車を押す晶が言った。

「えっ」

「ここンとこ、行き先も言わずに出て行く奴ばっか」

 ちくりと胸のどこかが痛んだ。

 晶は、あまり私の方を見ない。私も他人のことは言えないか。むしろ、見ないようにしているのは私の方で。それが、貴女を──。拳をぎゅっと握る。傷付けているに、決まっている。

「ねぇ、晶──」


 カイジューが人間にやさしくするにはどうしたらいいのかな。


 カイジューが人間に成ることはできない。けれど、やさしくあることはできると思う。私はつくしちゃんにそう言った。口で言うのは簡単だけれど──どうすれば、優しくあれるのだろう。

「それはなぞなぞか何かか?」

 うんと返事はしてみるけれど、すぐにそれがつくしちゃんに申し訳ないことのように思えて。たまらず違うって言おうとする私のおでこを、晶がちょんと小突いた。

「違うってことはすぐわかるよ。けど、大事なことなんだろ?」

 そうだなぁと腕を組んで、考え込む晶。

「ユキンコ、前に私のこと怒りっぽいって言ったろ?」

 言った──だろうか。

 晶は、憶えてねーならまあいいけどと拗ねたように言って、頬を掻きながら、尖らせた唇からゆっくり息を吐いて。すっかり、吐き終わって。

「私さ、本当に怒りっぽいんだ。そういうビョーキなんだって」

 ──え?

「わかるか? 何の根拠もなしに怒りっぽいって言われてるんじゃないんだぞ? 医者が医学的な見地から、貴女は普通の他人(ひと)より怒りっぽいって言うんだ。他人より──カッとなって、暴力振るいやすいんだって。ンなもん、もうどーしようもないじゃん。で、この話を聞いてだ」

 あっけらかんとした、いつもと変わらない調子を装っているけど。

「ユキンコは、私が怖いか?」

 眼には、覚悟の色があった。

「そんなことない。だって、晶だもの」

「──だろ? カイジューの晶ちゃんは、怒りっぽいけど、それでも怖くないって言ってくれる人間が傍に居る。だからやさしいおねぇちゃんでいられる。おい──今の笑うとこじゃねーから。思うに、そういうことだろ。カイジューがやさしくあるためには、カイジューを受け入れてやる──受け入れてくれるやさしさをもった人間が傍に居ないとダメなんだ。傍で支えてくれなきゃダメなんだ」

 気付いたら、晶の袖を掴んでいた。

 どうしたと言って、こっちを見てくれる貴女の声は、すごく優しい。

「もし、私もビョーキだったら? 晶とは違うビョーキで、カイジューだったら?」

 貴女は、それでも。

 わしゃわしゃと両手で頭を撫でられる。

「こんな可愛い〈雪ん子〉なら大歓迎だぜ」

 ああ、そうか。もう、それしかないんだ。

「ねぇ、二人乗りしよっか」

「校則違反だろ?」

「偶には、そういうことする娘になろうと思って」

 何かわからんがわかったと言って、晶が自転車に跨る。

 荷台に座った。晶の腰に手を回した。うおっと晶が声を上げる。思いのほか、私に遠慮がなかったからだろう。

「悩み事は──もういいのか?」

「ううん、まだだよ」

 むしろ、大きくなっていく一方で。ただ、それでも。

「今は、頭をからっぽにしたいから」

 もう、何も知らない女の子じゃない。もう、殺すばかりの悪い鬼じゃない。

 私の守りたい人たち皆が怖がらない、やさしいカイジューになるしかないんだ。ユキンコになるしかないんだ。

 そして、すぐ傍には、これから帰る家には、私をやさしくしてくれる人たちがいる。(とど)めてくれる人たちがいる。

 だから。

 私──大野木ココは恵まれている。


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